大人っぽく、分別があって、そして子供っぽい。

息子と同世代の中学生と話す機会がたまにあるんだが、みな驚くほどに大人っぽく、分別があって、そして子供っぽい。

書き間違いではない。

たしかに大人びているのだ。そして、少なくとも表面的には物分り良く、大人には逆らわず。

だが、そんな中学生ばかりなのが非常に気色悪く感じるのも事実である。

彼らが小学生だった時を知っているからだ。

皆、もっともっと個性的だったのに、中学生になって半年もすると、まるで就活中の大学生のように同じような顔で同じようなことを話す。大人には逆らわない。しかし本音も絶対に話さない。

それは一見、大人っぽいのだが、同時に子供っぽくも感じる。自分はこれだ、これが自分だ、という確固たる核が無いからだ。

定期テストの点数を揃え、少ない選択肢から選んだ部活に打ち込み。あるいは、そういうことへの意欲が無いとしても、学校を取り巻くように準備された課金アイテムに時間を絡め取られていく。サッカークラブ。任天堂。塾。

それで何となく人生が進んでいく。

そんな中学生たちと、有名企業で働くアラサーの総合職お兄さんたちは、私には全く同じ手触りを残す。

「こいつら、ガワは確かに立派だけど、中身あるのか?」

いやいや中身はもちろんある。あるのだが、実はガワと同じものが中まで詰まっているような構造なのではないか、という不安を起こさせる。

今現在の日本社会に適応するために作り上げた外装が内側まで全部満たしちまってるんじゃないか? 

そういう不安感。ちょいホラー。レールの上を順調に走り続けているうちに、レールの上を走ること以外の機能が無くなってしまったような、ね。

逆に、アラサー女性は怖いくらいに多種多様だ。ただし、これはちょっと気の毒なんだが、オトコ社会にどつき回された結果としての多種多様という感じもある。

そんな全日本中学生日記世界の中で、うちの息子は驚くほどに子供っぽく、分別無く、そして大人っぽい。

とにかく欲望まみれなのだ。得体の知れない欲望の塊と言っても良い。聞いたことも無い、説明されてもわからないようなモノの名前が次から次へと飛んでくる。かろうじて聞き取れるのは「デュアルモニター環境にしたい」「グラボを強化したい」「電源も強化したい」「いつかは自作パソコン」というような妄言である。理由を聞いても「やりたいからやりたいんだ」「欲しいから欲しいんだ」で終わる。子供かよ。

だが、もう一度よく考えてみる。自分が本当に欲しいもの、やりたいことを間違いなく知っていて、それに向かって真っ直ぐに生きているのは子供なのか? 大人なのか? 

人生が中盤を越えて後半戦に入った人々は、次第次第に「やりたいことをやれ」「やりたいことをやっておくべきだった」と言い始める。大企業の看板と自分の実力の区別も出来ていないようなアラサーイケイケお兄さんたちも、いつか言い始める時が来るだろう。

「やりたいことをやっておくべきだった」

であるならば、大人っぽいとは何か。子供っぽいとは何か。

バラエティあふれる子どもたちを恐怖のガワ人間たちに作り変える恐怖の頭脳改革工場を、いつまで稼働させておくべきなのか。