犬の道を往かざるもの

稲城五中の中間テストがもうすぐなのだという。

あと2週間だって。

で、毎日1時間、休日は5時間のテスト勉強をしましょうというプリントが配られた。

まるで時給の計算みたいな話である。

こういう言い方でコミュニケーションしないと通じない生徒も居るのかもしれないので、アタマから否定はしたくないが、それにしてもこれはまるで犬の道ではないか。しかも部活や習い事をしている奴は50%割引とか、もはや本末転倒だ(嘲笑) 中学校というのは一体何をするところなのか。学業が優先ではないのか。「部活動や習い事は試験勉強に影響が出ないようにこの期間は控えましょう」と書くならまだしも。

さて、犬の道とは安宅和人の考案したとされる言葉である。

では、どうやったら「バリューのある仕事」、つまり、マトリクスの右上の領域の仕事ができるのだろうか? 仕事や研究をはじめた当初は誰しも左下の領域からスタートするだろう。

ここで絶対にやってはならないのが、「一心不乱に大量の仕事をして右上に行こうとする」ことだ。「労働量によって上にいき、左回りで右上に到達しよう」というこのアプローチを僕は「犬の道」と呼んでいる。

(中略)

したがって、何も考えずにがむしゃらに働き続けても、「イシュー度」「解の質」という双方の軸の観点から「バリューのある仕事」まで到達することはまずない。

(中略)

これでは永遠に「バリューのある仕事」は生み出せないし、変化を起こすこともできない。ただ徒労感が残るだけだ。しかも、多くの仕事を低い質のアウトプットで食い散らすことで、仕事が荒れ、高い質の仕事を生むことができなくなる可能性が高い。つまり「犬の道」を歩むと、かなりの確率で「ダメな人」になってしまうのだ。

100歩譲って、あなたが人並みはずれた体力と根性の持ち主で、「犬の道」を通っても成長できたとしよう。だが、その後、あなたはそのやり方でしか部下に仕事を教えることができなくなってしまう。つまり、リーダーとしては大成できない。

(中略)

本当に右上の領域に近づこうとするなら、採るべきアプローチは極めて明快だ。まずはヨコ軸の「イシュー度」を上げ、そののちにタテ軸の「解の質」を上げていく。

出典:安宅和人『イシューからはじめよ:知的生産の「シンプルな本質」』(英治出版、2010年、PP27-32)

何故、稲城五中は学習の進捗を経過時間で計るのか?

何故、単語100だの漢字100だの単純作業の回数をKPI (KEY PERFORMANCE INDICATOR: 主要業績評価指数)にするのか?

プリントの丸写し? 気は確かか?

そもそも、そもそも中学校の学習は何のためにやるものなのか? それがイシューだ。イシューとは「答えを出すべき問い」のことだ。

教育基本法第4条に規定されているから? それは法治国家として根拠法が必要だから存在しているだけだ。私が今ここで問おうとしているのは、一人の人間として誰かが13歳から15歳の間に中等教育を受ける理由である。これは日本の話ではない。パタゴニアだろうがアラスカだろうがパキスタンだろうが13歳も14歳も15歳もいて、学校がある。ではその、地球の子どもたちがそれぞれの場所で、何故、中等教育を受けるのか?

ここに他人が考えた答えをぶっ込むのは筋悪である。例えば…

「いずれわかる」←今わからせろよ!

「良い高校に入るため」←良い高校って何?

「余計なことは考えなくて良いから黙ってやれ」←バカなのかこいつ?

今決めた答えが先々で変化しても良いのだ。肝心なのは今、納得出来るそれぞれの答えを持つことである。それが無ければ人は本気を出せない。やらされ仕事になってしまう。やらされ仕事の生産性は低い。特に知的生産においてやらされ仕事は殆ど何も生み出さない。そんなことに時間を使うくらいなら家族との団欒に時間を使った方がはーるーかーにマシだ。

自分は将来どんな人間になっているのか。どこで何をしているのか。それが個々の学び手にとっての「イシューを解いた状態」になる。

そこから「ではどのようにしたら、最も効率的にその状態を実現できるのか」が問われ、「1年生の6月において実現すべき学習到達度」が算出され、個々の特性に応じて「これからの2週間でしておくべきこと」が導き出される。何時間やりましょうやら単語量り売りやら写経やらをKPIにする発想とは真逆だが、管見の限りでは時間量り売りで考えるような行動指針は、利益率が高く給料が高い場所では今や殆ど用いられていない。

さすがに私も心配になった。まさかこんな犬のプリントを真に受けていないだろうな。

だが、息子の判断は最初から的確だった。私が聞く前に自分で考えた指針を教えてくれたのだが

「漢字の丸暗記はしない」 理由:脳の特性的にどうせ憶えられないから投入する機会コストあたりの成果がゼロに近い

「英語と数学と技術に全リソースを集中させる」 理由:これら三つは自分が将来、仕事で使うから

正しい。

見た限りでは国語や社会や理科は、今回は単なる丸暗記ゲームとお気持ち忖度ゲームである。そんなものはググレカスである。クラウドに答えが置いてあるようなものの丸暗記に貴重な人生の時間を使うのは愚か者だ。

英語もこれからAI翻訳によってどんどん重要性は低下していくだろうが、AI翻訳の粗を見つけられるくらいの英語力があれば、AIとの無敵タッグが結成出来る。

数学は先を急ぐ必要は全く無いので、とにかくヌケモレ無く着実に概念と演算経験を獲得しておくべきである。言い換えると、概念理解が出来ていて演算も出来れば、それで充分だ。ケアレスミス潰しや、パターンマッチング訓練による解答速度向上といったフィジカルトレーニングは大学入試までしか役に立たない。投入する機会コストに対する将来所得の上昇率は低い。大学や大学院で習うであろう、本当に仕事でバリューを出せる数学の習得のためには、中学高校の指導要領にある内容をヌケモレ無く身に着けておくこと、数学への苦手意識を植え付けられないことだけが必要である。

技術は…趣味だからね、彼の(笑)今更勉強しなくてもテストくらい出来るんじゃないかと思うが。

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