「誰も教えてくれない研究者の悪知恵」

 この演習の最後に控えているのは、あの悪名高いテキスト『(自粛)』です。きっと、他の演習に所属している友人たちから「あの本は難しい」という噂を聞いて、皆さんも恐れおののいていることでしょう。

 たしかにこの本は、これまで使ってきたテキストに較べれば幾分難しい概念を扱っています。ですけれども、難しい概念を扱っていれば上等な本というわけではありません。私の考えでは、最初に読んだ阿部謹也さんの本の方が、書かれていることの奥行きは遙かに深いですし、甲斐徹郎さんの本の方が、私たちにとってはより大切なことを論じているのです。

(自主検閲)の本は難しい。でもそんなに大切なことは書かれていません。言ってみれば高級な雑学です。知っていればちょっと自慢になるけど、誰かの人生を変えてしまうとか、生き死にの際にいるような人の魂を救うような力は一切持っていません。甲斐さんの本は中学生にも理解出来るように書かれています。でも、何とかして自分たちの住んでいる世の中を、自分たちの知恵と力で良くしていこうという、燃えるような思いで溢れています。

 私たちにとって大事なのはもちろん後者です。

 (自主検閲)の本は「書いてある内容がわからなくても特に実害は無い本」です。そういう意味では民放のバラエティ番組と同じです。全く恐れる必要はありません。気楽に読んでください。

2:世の中には二種類の本がある。

 ここで皆さんに驚くべき事実をお教えします。

 世の中には二種類の本があります。読者に何かを伝えようとして書かれている本と、読者に何かが伝わらないようにしようとして書かれている本です。全ての本はこの二種類に分けられます。

 なななな何だって? 本というのは、その内容を読者に理解してもらおうという意図のもとに書かれているはずじゃないか? そう思うのが普通ですね。でも違います。世の中は、もう少しだけ複雑なのです。

 この本は、著者の(自主検閲)が修士課程を出た直後に書かれています。まだ研究者としての定職にありついていない段階の、若手も若手です。しかしながらこの時の(自主検閲)は東京大学の名門研究室に所属する、将来を嘱望された若者でもあります。こういう若者の内面を一言二言で表すと、こうなります。

「俺はもういっぱしの研究者だ」「俺が優秀であることを、この機会に満天下に知らしめたいものだ」

 こういう時期の研究者が書く文章には、共通する特徴があります(私自身、身に覚えがあります)。

・その時点で知っているありとあらゆることを全部詰め込んでしまう
・もっと簡単に、もっとわかりやすく書けるはずの内容を、出来るだけ複雑に、出来るだけわかりにくく書いてしまう

 何故ありとあらゆる情報を詰め込むのかといえば「俺はこんなに色々勉強してるんだぜ。凄いだろう」と見せびらかすためです。何故、簡単に書けることをわざと複雑でわかりにくく書くのかと言えば、「俺はこんなに難しいことを考えてるんだぜ。凄いだろう」と見せびらかすためです。気負いというやつです。(自主検閲)自身が後書きで書いているのも、要するにそういうことです。あれはオブラートに包まれていますが、実は「この本は若気のいたりでした。ごめんなさい」と書いているのです。

 おわかりでしょうか。『(自粛)』は、わざと読者にわかりづらいように書かれている本なのです。困ったものです。だから、読みづらくても、内容がさっぱり掴めなくても、全く絶望する必要はありません。もともとこの本は、純真で素直な大学生が普通に読んでも意味がわからないように書いてあるのですから。

3:大事な情報は1割だけ。

 純真で素直な人間には読むことが出来ない本から、必要な情報だけを抽出するには、知恵が必要です。あまり高級な知恵ではありませんが、相手もあまり上品とは言えないことをやっているわけですから、「あいこ」だと思ってください。

 さて、おおざっぱに私が見積もったところでは、『(自粛)』の内容は以下のような割合で仕分け出来るはずです。

私たちが憶えておくべき大事な内容:1割
後日、必要に応じて再確認すべき情報:4割
どうでもいいトリビア:5割

 ここは一番大事な部分なので、きちんと理解しておくように。

 『(自粛)』に書かれていることの中で、皆さんが記憶にとどめておくべき内容はたった1割です。あとの9割は忘れてしまって構いません。その9割のうちの4割は、必要が生じた時点で『(自粛)』を出してきて確認すれば良い情報です。残りの5割は読んだそばから忘れてしまって構わないノイズです。(自主検閲)の青春の老廃物です。老廃物は速やかに洗浄除去するに限ります。付け加えるならば、社会学者が書く本の4割前後はこの手の悪書です。

 ここで問題なのは、悪書の中にもたまに大事な情報や概念が紛れ込んでいるということです。ですから皆さんは「社会学者の書く悪文・悪書の中から必要な情報や概念だけを効率的にフィルタリングして取り出す技術」を身につけなければいけません。情報は集めたり取り込んだりすることよりも、捨てることの方が遙かに重要だし、難しい作業なのです。無駄な情報は片っ端から捨ててしまわなければいけません。私たちの脳はゴミ屋敷ではありません。ゴミのような情報は最初から持ち込まないことです。

 ここでは、無視すべきノイズな記述の簡単な見分け方を伝授します。

A:唐突に出てくる人名

例:「~が言っているように」「~の(書いた)『~~~』の中には~~~とあるが」

こういうものは単なる知識自慢だと思ってまず間違いありません。流し読みした後、さっさと忘れてしまってください。

B:延々と並べられる事例

 これもAと同じくただの知識自慢、勉強自慢です。憶える必要はゼロです。読むそばから忘れてしまいましょう。

 これらは「忘れても良い情報」ではありません。「積極的に、かつ可及的速やかに忘れてしまうべき情報」です。何故ならば、このような情報は紙やコンピュータの上にはいくらでも貯蔵出来ますが、人間の神経組織にはいくらも貯蔵出来ないからです。

 こういう無駄な情報を神経組織に取り込んでしまうと、もっと大切な仕事(情報の海の中をナビゲーションすること)に使うべき神経組織の能力を削られます。

C:長々と引用される文章

 字数稼ぎだと思っておいて問題ありません。本当に大事な引用なら、その直前か直後に著者自身の言葉で、その内容が要約されています。そうでないならどうでも良い引用です。どちらにしろ、3行以上の直接引用を読む必要はほとんどありません。