『ラノベのなかの現代日本』書評

波戸岡景太『ラノベのなかの現代日本』(講談社現代新書2003)読了。著者は文学研究者で明治大学理工学部の人社系講座の准教授だそうです。

内容が無いよう・・・・とまでは言わないですが、内容薄いですね。元々、文学研究で単一のテクストや著者を扱うのではない本だと、かなりの確率で書き手の知識の羅列に終始して読み手はついて行けない・・・となるんですが、これもその残念な例に新たに加わった新鋭ってとこです。

私はラノベなるものを、ビブリオ古書店の事件簿でしたっけ・・・あれがラノベだというのなら少なくとも1冊は読んだことありますが、その程度の知識しか無い人間です。その私がこの本を読んで分かったことは

・ラノベの主人公は元オタクの男子高校生である
・主人公の周りには発達障害の美少女が複数名集まってくる
・発達障害の美少女は意味不明のサークル(春風高校の光画部のような)を旗揚げし、そこを舞台にドタバタのへたれラブコメが展開する
・ラノベの主要登場人物は「ぼっち」と形容される、対人コミュニケーションの苦手な人間であるが、本人はそれに気づいていない、あるいは諦観とともに受け容れている
・しばしば発達障害の美少女は時空の整合性を破壊する能力を持つ
・主人公の元オタクの男子高校生は意味不明サークルでハーレムの中心になるが、あくまでも受動的な存在であり、自分から人間関係を進めることは忌避する
・ラノベの作者のペンネームや登場人物の名前は、同じ言葉を2回繰り返すものが多い(「加藤加藤」とか)

これくらいかな。
上記のようなラノベの特徴が全体として、反ジュブナイル的な思想(個人の成長や社会の進歩の価値を認めたがらない)の表現のために用いられていることもわかりました。

最後の方の村上龍や村上春樹や村上隆との比較の議論は、何故そのわかりやすい村上軍団だけが特権的に比較対象にされるかの説明さえ曖昧で、「だから人文は・・・」という感じ。その後のノスタルジア論は完全に文字数稼ぎでしょう。研究としてきちんと結論が出ていないテーマを新書にしちゃったなと。

ただ、今までに担当した学生たちの一部が何故あれほど拗ねているのか(成長したいんだけど成長なんか興味無いってポーズを頑なに取り続けて、そうこうするうちに周囲の素直な学生がGW直前の孟宗竹のように爆伸びするのを目の当たりにしてさらにいぢけて、もう自分でも何をどうしたいのか何をどうしたら良いのか分からなくなって自室のベッドで密かに泣いてるみたいな展開)は、何となくわかりました。

「ぼっち」キャラを選んでたんですね。あの子たち。

なるほどなあ。たしかに私も自分が若かった頃のポピュラー文化の中にあったキャラクターに憧れて、そのように生きているわけですから、彼・彼女らが「ぼっち」を生きようと決めたということ自体には得心がいきました。

世を拗ねて生きる形式にも時代ごとに流行があるんですね。西行法師が「ぼっち」キャラを見たらなんて言うか・・・おっと彼は世を拗ねたふりをしていただけの人でしたか。

でもみんな、いつまで「ぼっち」で突っ張れるかな? 「ぼっち」ギブアップしたくなったらいつでも連絡下さい。待ってます。