大縄跳びって21世紀において何か建設的意味あるの?

ようやく今日、運動会、じゃなかった、体育祭だっけ、あれの自主練は自主練だという公式アナウンスが学校からあったそうな。なんだその同語反復は(笑)

朝練に行かなかったら遅刻扱いになるというブラック企業的なマネジメントを卒業してくれたようで、まことにめでたい。誰得? みんな得してるだろこれ。

朝練をやるなとは言わん。だが、やるなら筋を通してやれ。

筋を通した仕事のやり方は、最初は面倒くさいよ。でも、ちゃんと筋を通していった方が、最初からチート技を覚えてそれを使うよりトータルでは楽なんだよ。

ところでその稲城五中の運動会の「自主練」
 
大縄跳び練は予想通り生徒間でのマウンティングが見られたと息子が言っていた。やっぱりあいつこういう時はマウンティングするよね、という、もはや小学校1年生からの流れで納得感しか無いみたいな展開の模様。
 
ま、大縄跳びもやるなとは言わんけど、やるんならこういうマウンティングの場にならないようなコントロールが必要だと思う。
 
だけど、この手のマウンティングの防止って私みたいな社会学ベースでHRマネジメントのコンサルの仕事もやっているような人間でも、なかなか特効薬はポンと出てこないもんでね。
 
大縄跳びが苦手な子をみんなで助けて出来るようにしよう、みたいな24時間テレビレベルの発想が、大縄跳びが本当に苦手で・嫌いで・頑張っても出来ないし、そもそも何でそんなこと頑張る必要があるのか理解出来ない、納得できないという子には、善意の集団暴行でしかないよね、というのは現代の社会科学の研究レベルからすれば、基本なわけですからね。むしろ君たち教員養成課程で習ってないんですかそれくらいの基本って本気で不思議に思えるくらいの基本。君たちどこの大学ですかちょっと成績表見せてみろって思えるくらいの。
 
自主練は行かない、苦手だから本番でもすぐに引っかかる、そういう子がクラスにいた時に君たちはどうすべきか。
 
自主練を止める? 本番の勝負を諦める? 笑顔で圧力かけて引きずり出して練習を強要する? 
 
というか、大縄跳びって社畜育成以外でそもそもやる意味あんの? 
 
そういうとこまで簡単に行っちゃうからね、議論は。