器量とは育つ・育てることが出来るものなのか。
個人の能力を、サッカーにおける足技とか野球における打撃術のような、個人で完結するものと定義するならば、これは明らかに訓練によって伸びます。
個人で完結しない、協働によるプロジェクト遂行能力を「人徳」という言葉で代替出来るかどうか微妙なところですが、ともかく社会関係を通して何ごとかを遂行し良い結果を導く能力。
これは伸びるのか。
(立教大学のリーダーシッププログラムのように)グループワークにおける良きメンバーとしての行動規範を獲得させ、それに習熟させる。これも明らかに可能です。
ただ、ここまで挙げたものは全て、出すべき結果とその評価尺度が明確な領域です。サッカーとか野球とかビジネスにおけるプロジェクト遂行とか。何が評価されるべき成果なのかは誰でもわかる。
では、そういうわかりやすい枠組みと尺度が設定出来ないところでの、協働能力。これはどうか。
ものすごく抽象的な話になるのですが、人と人が知り合ったり関わり合ったりするとき、原理的には必ずお互いにそこで影響を与え合うことになります。その際に、関わり合った相手に良い影響をどれだけ強く/広く/深く/長く与えられるか。
あるいは逆に、相手からもらった入力をいかに自分の中で/周囲で、良い成果・結果を生むものとしていけるのか。
入力側においても出力側においても、信号を良いものに変換し増幅していける能力。そういうものがある人の周りには人が集まって来ますから、結果として、先に挙げたような「枠組みがある中」での良い結果も出しやすくなるはずです。
難しいかな?
例えば「こんな話があるけど、どうする? 興味ある?」という声が漠然とかかったときに、「ありがとうございます! 是非お願いします。」と反応して、そこで得られたものを自分の糧にして成長出来る人。そしてその成果を周囲にも分け与えられる人。
そういう能力も「器量」という中にはあるのではないかと思うのですが、さてこれは育てられることが出来るのか。
特に男の教え子など、しばらくぶりに会ったときに、こいつは器量が育ったなと感じることはちょくちょくあります。ということは、育つことは育つのか。
ではどうやったらそれは育つのか? 他人が育てることは可能なのか?
これは私にはまだわかりません。