「この教育法が凄い」の虚しさ

「この教育法が凄い」という記事が毎日いっぱいウェブでバズっているのですが、その大半について個人的には

「はあ? くだらね」

と思ってしまいます。

何故多くの皆さんのように熱くなれないのか、さっきちょっと考えてみた。

最大の理由は、それらの記事で殆どが最終的には受験競争(または出世競争)での優位性の獲得という観点で書かれているということ。

もう一つ大きな理由は、個々の児童生徒の適性や興味関心、価値観、人生観といった要素を考慮していない議論だということ。

話が逆だと思うんですわ。

まずは一人ひとり、何が好きで何が得意で、どう生きていきたいかが出発点。それでスコープを絞り、その次に、じゃあどんな勉強してったら良いかねえという問題が来て、最後に、学習方法の技術的検討が(やはり個々の特性を考慮しつつ)必要になる。

というのが私の考えね。

学生たちの就活の相談でも、まずは「あなたが大事にして生きたいもの、あなたの価値観は何ですか」「あなたが得意な行動パターンは何ですか」ということを考えてもらって、「じゃあそれを指針に仕事を選んでいきましょう」という順序でやっとりました。

世間のベタな価値観を安易に使って勉強したり仕事したりしてると、病みや闇に取り込まれそうになった時、気づくのが遅れるからね。

教科学力や進学先のヘンサチーの多少の上下など気にして時間を使うより、人生観を、自分自信の価値尺度を育てることにお時間を使う方が良いんじゃないか。私はそう思っているので、国際バカロレアもプログラミング教育もバイリンガル教育も

「はあ? くだらね」

になっちゃうんだな。

そういえば3月で引退されたA先生と去年パーティーでご一緒したとき

「加藤さん、あなた自分が一番かしこいと思ってるでしょ」
「はい。その通りです。」
「自分が一番、自分の子供を上手く育てられると思ってるんじゃない?」
「もちろんです!」

(即答)

というやり取りがありました。
他人の価値観や他人のスタイルを真似して何が面白い。
カードゲームのデッキ構築競争じゃあるまいし。

マックス・ウェーバーやマルティン・ブーバーやカール・マルクスのようなセンチュリー級の知性が今どこかに存在したとして、彼や彼女が他人の考えた教育法に乗って、自分の子供を教育するだろうかって考えたら、絶対しとらんだろうなと思うし。

自分で考えて、自分で動いて教育するのだ。