ポジションを取れ!

日本を代表する写真家の一人である荒木経惟への元モデルたちのmetoo告発について、私は以下のブログ記事で自分の考えを表明してきました。

(一つ目のブログ記事につきましては、言及した戸田昌子氏が、そういう発言意図ではなかったと4/12に書いておられますので、そちらもご確認ください。)
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 さて、今日この記事で私が論じたいのは荒木経惟やその周辺で商売をしてきた方々について、ではありません。

 こうした論争が発生したときに、教師たる者はいかにして議論をすべきかというお話です。

 私は立教大学で2011年度と2012年度には社会学部で卒論指導を担当しました(ちなみに写真文化論という専門科目も担当していました)。その後も個人的に卒論指導をした学生は何人もおります。何人どころではないか。10人以上か。

 その指導のなかで基本のキとして私が何を教えたか。。

 論文には事実と論理だけを書け。自分の意見は一切書くな。
 
 ただし、結論を書いた後には、自分自身の見解、価値判断を書いても良いし、出来れば書いた方が良い。

 学術論文は基本的にワン・イシューです。ある一つのイシューについて、事実関係を調べ、これまでの議論を確認し、データを集めて、そこから論理的に結論を導き出す。そこに書き手の価値判断は入る余地はありません。

 しかしながら、社会科学の論文が「客観的にこれは調べたらこうなっていて、論理的に考えるとこういうことが言えます」で終わってしまうと(終わっても良いんですが)、書き手の成長幅が小さくなってしまうと私は思っています。

 大学で学び卒論を書く学生たちは、卒論を提出すれば大半は職業人として歩み始めます。その仕事の場で彼・彼女らが大きな、普遍的な価値のある仕事をしていくのであれば、必ず、自らの責任において価値判断を行い、意思決定をする必要が出てまいります。遅かれ早かれ。

 社会は複雑です。答えは一つではありません。しかし、いくつもある答えの中から、どれかを選ばなければ前に進むことが出来ない場は無数にあります。立教大学で私に学んだ若者たちには、そうした場で自らの責任において判断し、先に進むことが出来る人材となって頂きたかったわけです。

 その訓練として、卒論で結論を書いた後に、「このように一筋縄ではいかない問題ですが、私はこうあるべきと思います。その理由はこうです」ということを、短くても書いた方が良いですよ。それを書くことで研究全体に重みが出るし、あなたの理解に深みが生まれる。

 それが「ポジションを取る」ということです。

 そう学生たちに教えてきた私が、そして写真文化論なんて講義を何年もやっていた私が(その講義で荒木の写真について論じたこともあります)、こういう時に客観的に状況を分析して終わりにするなんて二枚舌をやれようか。やれません。
 
 そんなことで、学祖ウィリアムズ主教様の銅像の前に胸を張って再び立てようか。立てません。

 最後の写真文化論の講義を終えてからもう3年経ちますが、いまなお「写真文化論は立教大学で受けた講義でトップ3に入ります」「センセーまた写真展みんなで行きましょう」なんて連絡が来るわけです。そんな声に恥じないおっさんでなければね。
 
 だから私もポジションを取ったのでした。
 
 責任ある仕事をしたいなら、ポジションを取りましょう。