『喜嶋先生の静かな生活』を読んで、自分はまだ研究者なのかもしれないと思う

森博嗣さんの小説(ミステリーではない)『喜嶋先生の静かな生活』(講談社、2010年)を読みました。

これは以前に短篇集『まどろみ消去』に入っていた同名の短編に大幅に加筆して長編に組み替えたものです。森さんがある時点で、短編の方を自身の現時点での最高傑作と書いておられたのですが、長編の方を読んでみて、これは確かに最高傑作だろうと納得しました。

お話はシンプルなものです。

名古屋大学の工学部の学生だった橋場くんが、偶然、喜嶋先生という超一流の研究者に出会い、大学院に進み、修士課程の終わり頃に喜嶋先生とのディスカッションが白熱して8時間ぶっ通しで(ボールペンを何本も書き潰しながら)一緒に数式を展開するという経験をして研究者の醍醐味を知り、やがて大学教員として多忙な毎日に飲み込まれていくというもの。

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最後が切ないんですよ。

「僕はもう純粋な研究者ではない。僕はもう・・・。

一日中、たった一つの微分方程式を睨んでいたんだ。あの素敵な時間は、いったいどこへいったのだろう? 喜嶋先生と話した、あの壮大な、純粋な、綺麗な、解析モデルは、今、誰が考えているのだろうか? 世界のどこかで、僕よりも若い誰かが、同じことで悩んでいるのだろうか。もしそうなら、僕は、その人が羨ましい。その人は幸せだ。気づいているだろうか。教えてあげたい。そんな幸せなことはないのだよ、と。」

「もう二度と、あんな楽しい時間は訪れないだろう。もう二度と、あんな素晴らしい発想は生まれないだろう。僕からは、生まれないだろう。」(341-342ページ)

日本の大学の専任教員の生活は私はよく知らないですが、近くで観察していた/いる限りでは、きっとこんな↑なのだと思います。

この本を読み終えた私はすぐにメッセンジャーを開いて、最後のゼミ生に以下のようなことを書き送りました。

「高校のセンパイで名古屋大工学部准教授だった森博嗣さんの『喜嶋先生の静かな世界』をさっき読んだのだがな。

大事なことが書いてあった。

大学3年までは与えられた課題について調べて書けば良いが、卒論から先は違うと。まだ誰も答えを出していない問いを発見して、それに答えを出すのが卒論だと。

これは確かにそうなのだ。

卒研(5000字のレポートを、教員から指定されたお題で4本書いて出すという単位取得方法)は残念ながら大学3年生までの課題の延長戦だ。

そして大学を出ると「大学4年生の勉強」をする機会は多分死ぬまで来ない。

だから個人的にはもう就活は終わりにして、単位にならなくとも卒論を書くことを強く勧める。

きっと良いものは書けないだろうが、書き終えた時になにか自分の知らなかった世界の破片のようなものは手の中に残っている可能性がある。

その破片はもしかしたら10年後か20年後かに、君の人生を変えるような大きな仕事のマジックアイテムとして突如パワーを持つかもしれない(そのレベルの仕事が出来る人間になっていなければ何も起こらない)。

以上、明日になったら書き送る時間や気力が無くなっているかもしれないので、書いた。」

私はといいますと、一日中、たった一つのバッグのたった一箇所の作り方を考えてるなんてのはしょっちゅうなので、純粋な研究者に近いものがあります。博士論文を書いていた時の時間の過ぎ方に近いかもしれません。傍から見ると本を読んだりメモを描き散らかしたり資材を調べているだけかもしれませんが。