正確な地図よりだいたいのコンパス、競争より遊び。

昨日のCoder Dojoに置いてあったのを発見して、帰りに本屋で早速買ってきた『小学生からはじめるわくわくプログラミング2』(日経BP, 2016)。
私が昼寝している間に息子は「3周も読んだ!」とかで、早速新しいテクニックを使って何か書いておりました。後でみせてもらったら、ベクター画像を降らせる技だそうです。ベクター画像そのものも自分で描いて、フリー素材の効果音落としてきて、画面の好きなとこをクリックするとそこからChain Lightningが発生するという作品でした。
息子のやり方は、自分でも言ってますが
「まずは作る。作ってから、それが何かを考える。」
です。
おそらく最初は個々の機能や動作を実験しながら、その動作や機能そのもので遊び(あるいは「動作や機能と戯れ」)、その遊びの中から作品としての完成形を見つけ出していく。その完成形もしばらくすると、また作り変えられちゃったりするので、遊びエネルギーの基底状態ということでしょうね。
遊びの素粒子がブツカリ合って自己組織化して散逸構造を形成する。そのコード面が個々の作品です。しかしそれも場合によっては相転移して次の状態に移って行っちゃったりするんだな。
この本の最後には、スクラッチプロジェクトを立ち上げたMITのレズニックとシーゲルのブログの翻訳が掲載されているのですが
「多くのコーディング入門教室では、生徒たちは障害物を避けながら仮想キャラクターをゴールへと向かわせるようなプログラミングを求められます。このアプローチは、生徒たちがある程度の基本的なコーディングの概念を学ぶのを助けてくれます。しかしながら、彼ら自身を創造的に表現することを助けてはくれませんし、これから先の長きにわたるコーディングとの絆を深めてもくれません。それは、生徒たちに自分の物語を書くための機会を与えず、ただ文法や句読点を教えるためだけの作文教室を提供するようなものです」
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というこれが、まさにその、今、日本の色々なところで実施されているプログラミング教室と、Coder Dojoの違いのように感じます。
どこに向かうかは本人が決める。
それが、ジェフ・ハウと伊藤穰一の共著『9プリンシプルズ』(早川書房、2017)の第3章「地図とコンパス」で描かれた、レズニックとシーゲルがスクラッチを創り出していったプロセスにおいて、重視されていたことです。
思い出してみれば2006年に私が翻訳した『星の航海術をもとめて:ホクレア号の33日』(青土社)でも、これと同じ話が書かれていました。
古代のリモート・オセアニアでは、遥か水平線の彼方の小島を目指して、航法師たちは自分の身体をコンパスに作り変えて、航海カヌーを導いていました。今自分が出発地に対してどれくらいの位置にいるのか、たぶん目的地がある辺りに対してどれくらいの位置にいるのかを、身体そのものが星の動きや波、風から無意識のうちに感じて、どちらに向かえば良いかを教えてくれる。それで下手すると3000kmくらい太平洋を突っ切ってハワイからタヒチまで行ってたりした。
海図なんて無いから、目的地のだいたいの位置を指し示すコンパスを使う。途中で流されたりしても、コンパスが機能していれば、目的地にたどり着けるわけです。
いま30代40代50代の人が、いま10歳11歳の人のための精度の高い海図を描いてあげられるのかと問うた時、決められたルートをナゾってゴールへの到達速度を競うとか、箱庭の中で障害物避けレースをするロボットを作ろうとかいう発想自体、完全な地図や海図ありきのものですから、私はあまり評価しない。そういうものにはお金は出さない。
「何が出来るんだかわからないけど、面白そうなツールだからこれ買ってくれ」
こういうのが好き。
その先に、彼・彼女らが新たに植民すべき新天地があるんじゃないですか。