立教の伝統系学部(経営とか異コミとか福祉とか身映ではない、私が受験生だった頃には既に老舗だったようなところ)を定年退職された先生から、そういう辺りの学部がもう全然、明治に勝てなくなったままだというお話を伺った。
例えば私が受験生だった頃は、文学部で立教明治と受かったら立教にするのが普通だった。実際、当時の立教の文学部の陣容は大したものだったと思う。
今やもう全然それが逆転していると。
立教文学部で同期だった清水くんも今は明治の文学部の名物教員の一人だし、こないだはとある企業の人事さんに立教の先生で面白い人がいたら紹介してくださいと頼まれたけれども、パッと思い当たらなかったので明治の経営の先生を紹介させていただいた。
何故そうなったのか。
伝統系学部全体の価値が見えにくくなってきている時代であるということは言えるだろう。BLPで気を吐く経営学部や、じゃんじゃん学生を外国に出してグローバル人材トレンドに乗った異コミ学部は、キャラが立っていてわかりやすいし、中原淳さんのような次世代のスターを獲得するなど、外に向けてのメッセージも明確に打ち出している。
一方、伝統系学部ではキャラの立った名物教員が次々に引退し、後任としてやってくるのは手堅いテーマを手堅く積み上げた、秀才かつ無難な人たちである。
秀才かつ無難かつ手堅い若手は、採用する側からすれば無難かつ手堅いチョイスなので、最も好まれるところなのだろうとは思う。無難だし。
しかし専任教員のラインナップが全部そんな人材で揃ってしまうと、残るのは老舗の暖簾だけである。
経営学部の中原氏獲得が大きかったのは、彼がブロガーとしても相当なインフルエンサーであるということ。受験生の志望校選びにおいて、綺麗事の最大公約数しか書かれていない公式ウェブサイトしか無いのと、なにがしかキャラが立った名物教員が独自の情報発信をしているのとでは、どちらが強いかは言うまでもなかろう。
伝統系学部で、学科単位で見て誰一人、広く社会に向けた有用有益な情報発信のフローを作っている人がいないとしたら、それは衰退フラグである。
個々の採用人事にあっては、ブログやツイッターで饒舌に語るような人間は無難ではないので忌避されるであろうが、無難だけで固めればその組織の未来は無難ではない。そういう時代だ。
そしてもう一つ、これは印象でしかないけれども、無難に安打と二塁打と断么九とピンフを積み上げることに特化しすぎた(そうでなければ生き残れない世界であるのは認める)結果として、若者を無難に右から左へと流して卒業証書を渡すルーチンワークが教育の全てだと割り切ってしまっている人の割合がちょっと増えすぎているのではないかとも思う。
昨日もどこかで書いたが、技能や知識を教えることに特化した専門学校ならばそれで全く問題無い。
しかし、それならば大学は専門学校に敵わない。
何のために、それぞれがもっともらしい理想を掲げて大学をやっているのか。
今ここで私の脳内には特定の何人かの引退した先生方の顔と名前が浮かんでいるのだが、その人たちは、意図したものか意図していなかったものかは知らないけれども、生き方や生き様を通して学生たちに、知識や技能以外の何かも結果的に伝えて(しまって)いたと思える。
それを何と呼ぶべきか。思想。哲学。あるいは道。立教学院建学の祖の言葉「道を伝えて人を伝えず」を借りればまさに「道」である。
学校にしろ職場にしろ、人材育成のプロセスは知識や技能を獲得させることが主眼であり、またタチの悪いところにあっては組織の使い勝手が良いように人の行動パターンを社畜マインドに改変するカルト的な洗脳をしているところもある。
しかしながら、そのどちらのアプローチにおいても、人を大きくするという点では限界が来るのは早い。人の器の大きさや勁さは、知識や技能の効率的習得アプローチでは変化しないし、社畜マインドのポストインストールでももちろん変化しない。
指導する側が人として思想や哲学を真剣に語り、道を求める姿勢を見せることでしか、育てられない部分が「器」なのではないか。
ここを、多くの大学教員や管理職は見落としていないだろうか。