上野千鶴子の演説、上野本人への好き嫌いは別としても、やはり乗れない理由がわかった。
比較的評価の高い、ラストの大サビの部分が自分の価値観に合わない。
すなわちこの辺り。
「あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。」
私はここはおかしいと思います。
入試の合否判定は本来なら誰に対しても同じボーダーラインを適用し、そこより上なら合格、そこの下なら不合格というのが公正公平でしょう。
で、自分の知る限りでは東大に合格するような人って、もともと教科学力の獲得に要する労力がとっても低い人たちです。偏差値50の人が試験で点数を1点上げるのに5時間かかるとすれば、東大に受かるような人たちは同じ距離を30分で踏破するような体に生まれついている。
この二人(偏差値50マンと偏差値73ウーマン)が同じだけ頑張ったら、勝つのは100%、生まれつき圧倒的な教科学習適性を持ち合わせた偏差値73ウーマン。100回勝負して100回そうなる。
これは不公正でしょうか? 公正でしょうか?
求められる結果を出すのにどれだけ「頑張ったか」で評価するのは、私は不公正だと思う。
高3の4月まで授業だけ聞いてて、そっから1日2時間の追加の受験勉強やって余裕で東大合格しました。そりゃそういう力持ってるんだからしょうがない。頑張らなくてもクリア出来るんだから頑張る必要無いっすよ。
本当に大事なのは、同じレベルのアウトプットを出しているのに、片方は男だからとか有名ブランドだからとかコネがあるからとかいう理由で下駄を履かせて評価され、もう片方が打ち捨てられることが無い社会を目指す、ということです。
(私の人生は概ね、トップブランドの人たちにブランド力で蹴散らされる側でしたし、女子の教え子たちのキャリアは概ね、女だからという理由で不利を受けているように思えます)
頑張ってるんだから結果が伴わなくても評価されるべきだ、なんてどういう地獄社会でしょうか。やだよそんなの。結果を平等に公正に評価しよう。勝者総取りにしろとは言いません。頑張ったけど結果はイマイチだった人たちが生きていくのに困るくらい何も手にできないというのはダメです。ですが、傾斜配分するならば、求められる成果をより高い精度で出した人にこそ多めに与えるべきではないですか?
上野千鶴子くらい賢い人物ならば、頑張ることとアウトプットの質とが正比例ではないことなど知っているはずです。でありながら、バズを狙って敢えて日本社会の大衆が好む「頑張り」を持ち出してきたのではないか、と勘ぐってしまう私の腹黒さが怖い。