研究する人生から商売する人生へ

 昨日、教え子から「修士論文提出しました」という報告がありました。2年前の卒論ゼミの子です。ちなみに卒論も、地味で手堅いけれども自分の問題意識を丁寧にブレークダウンして研究テーマに落とし込んだ論文で、その年度の優秀論文の一つに選ばれました。

 とはいえ、この学生が大学院に進学したいと相談して来た時はもちろん、全力で、徹底的に反対しましたよ。何時間も。あなたのように聡明で大きな可能性を持った人間が、こともあろうに研究者などというロクでもない選択肢を選ぶなどあってはならないことですと。

 ただ、博士課程まで行くつもりはなく、卒論の問題意識を更に深めて修士論文を書いてから、それを何らかの形で生かしてビジネスの世界に進むつもりですという話を聞かされたので、そこまで言うならやってみるのも良いでしょうと答えて、その覚悟を応援する気持ちも込めて、何本かあった優れた卒論の中からこの学生のものを推したのでした。

 その後、去年の晩春には立派な会社の内定をいただいたとの報告があり、初秋には修論のインフォーマントを紹介するなど、節目節目で彼女が着実に前進している気配は伝わってきており、今日ついに彼女の研究する人生に終止符が打たれたわけです。目出度い目出度い。

 さて、この春には彼女もまたビジネスの世界へと歩を進めます。大学院での研究とは全く異なる分野のビジネスです。では、彼女の修士課程での2年間は役に立たないのでしょうか? 

 私はそうは思いません。これは自分自身が研究する人生から商売する人生へと異業種参入してみて実感したことです。研究者としての知識や経験は、ビジネスの世界でも役に立つのです。いつか。

この命題には二つの含意があります。研究者としての経験は、二つの強みをもたらしてくれるのです。

 一つは研究者としての訓練を通して身につけた、事実と論理のみに依拠する論理的思考です。私が彼女らに叩き込んだのは、IMRAD構造を用いた実証研究の方法論でした。何故ならば、彼・彼女らが社会に出た後に最も役に立つのは、文学部的な読み物論文ではなく、無味乾燥だけれども強靱な構造と部材によって打ち立てられた理論を生み出す手法に違い無いと考えたからです。そしてそれは、私自身の事業経験から考えても正しかったと確信しています。育児バッグに求められる機能は何かを一つ一つ精密に言語化し、それを実現する方法を考え、それらを総合し、さらにそれらが一つのバッグとなった時に何が優先されるべきかを考える。限られた資金で起業し、事業を存続し続けるに為には何に資金を使うべきであり、何に資金を使ってはならないのかを考える。全て事実と論理の積み重ねです。

 もう一つは、3年間の研究が自分のキャリア構築におけるアンカーになりうるという強みです。アンカーとは、ここでは地面に打ち込まれた固定具の意味です。では、何故、研究する人生がキャリアのアンカーになるのでしょうか?

 私はかねがね思っていたのですが、教師がどんなに頑張っても学部4年間で本当の専門性を身につけさせるのは難しいのです。卒論は言ってみれば路上教習の前の仮免許のようなもので、その仮免を使ってもう一度研究をして修士論文を書いて、漸く「研究ってこういうことだったんだ」というものが実感出来るものです。ですから、修論まで書いたら一応は研究者の端くれとして扱われるようになりますし、早い人なら博士課程在学中に教員デビューします。

 このような意味で、修論を書いたということは、「私の専門は〇〇です」と言いうるレベルに達したということであり、一応は何らかの分野で一人前になったということです。よく、会社に入って3年やって一人前になると言われますが、それと同じですね。企業人も新卒入社から3年やれば、一人で業務を完結出来るようになるでしょう。研究者も同じです。修論を書き終えたら、一人で研究を完結出来るレベルに達するのです。

 しかも、人社系の場合、大概はその修論のテーマは、その後関わることになるビジネスとは殆ど無関係なものです(経営学修士や教科教育などの実務家養成大学院は除く)。これが実は強みになりうると思うのです。

 地面に一本の棒を立てるところを想像して下さい。この棒は職業人としての専門性です。専門性は職業経験や研修、学習によって高めていくことが出来ます。多くの人は大学を出てからほぼまっさらな状態でこの専門性を伸ばし始めます。一方、修士号を取るくらいの専門性を大学教育において獲得した人には、既に地面に深く打ち込まれたアンカーがあります。そのアンカーの位置と職業人としての専門性の位置は離れていますが、だからこそ専門性が高く伸びるに従って、離れた位置からその専門性を支えるアンカーの存在感が増すのです。甚だ残念なことに日本には一意専心を良しとする美意識が根強い為、この道一筋何十年脇目もふらずにやってますみたいなキャリアが評価されますが、「離れた位置に打ち込まれたアンカーによって支えられる専門性」というあり方のメリットもきちんと見るべきではないか、というのが、あれこれ違った仕事を数年ごとにやってきた私の実感です。

 確かに自分の人生これ一本でやれば、専門分野での解像力は上がるでしょう(大学の専任教員の大半がこの生き方)。しかし一つだけの視点から見れば遠近感を欠きますし、視野も狭くなる。二つの視点があれば視野も広がりますし立体視も出来るようになります。長い人生において、広い視野と立体視能力は生存競争に有利に働くと思います。

 研究する人生から商売する人生へようこそ、校友。今後ともよろしくお願いいたします。