beyond the homes of Donegal

 ロック音楽についてはどうだろう。フリンジ音楽が流行った頃、それらに影響を受けたバンドが日本にもいくつかあった。ヒートウェイブとかソウル・フラワー・ユニオンだ。では彼らは故郷にいかにして向き合っただろうか。たしかに彼らが共作した「満月の夕」は名曲だ。だが、あれは阪神大震災の被災者として作った歌だろう。山口洋は「五木の子守歌」をちょくちょく採り上げていた。でもこれはただの子守歌だ。

 フリンジのロック音楽家たちが80年代にやっていた創作活動の根底には、「斜陽のおらが故郷をどうしたものか」という問題意識があったような気がする。アイルランドがIT特需でバブる前の話だ。UKがサッチャー政権下でネオリベ政策をやっていた時代だ。フリンジはおしなべて左前だった。だから彼らは故郷の抱えていた難問に向き合おうとしたのだろう。今の日本だって、景気が良いのは東京圏とか名古屋圏とか、大都市圏ばかりなのだ。鄙はどこも青息吐息だ。一発逆転を狙って国会議員を動かして新幹線やら高速道路を引いたところで、近場の大都市に消費も若年人口も吸い上げられてなおやせ細るのだ。ストロー効果というやつだ。

 日本でフリンジロッカーの真似をするのなら、そういう、自分の足下の課題と格闘するべきではないのか。スコットランドもウェールズもアイルランドも奴らの祖国なのだ。山梨出身の宮沢和史が「極東サンバ」とか「島唄」をやったのとはわけが違う。福岡出身の山口洋が「ドネガルの我が家」を歌ってどうするのだ。宮沢や山口や中川敬のやっていることは、ハズシ系の異国趣味以上の何かには見えない。それが悪いわけではないが・・・・・。

 むしろフリンジロッカーの方法論に近かったのは、上上颱風や伊藤多喜雄だっただろう。この二組の音楽家は修士課程でついた先生も大好きで、先生がプロデュースして年に一回、その町で開かれていた音楽祭に、いずれもヘッドライナーとして招聘されていた。そういえば伊藤多喜雄はホクレアの活動にも大いにインスパイアされているらしい。

 僕がひっかかりつづけていたのはそういうことだった。単なる懺悔や恨み節の歌なら安保の時にフォークの人たちが散々やっていただろう。では、そういう単純な「加害者or被害者」の図式を乗り越えた、しかし目を背けない、そして僕たちの故郷に正面から向き合った、そこでしか生まれないような建設的な生活文化を、僕たちはどれだけ生み出していけるのかという話だ。ロック音楽に限らず。