そんなことを考えていたら、最近ちょっと面白いものに出会った。仕事で翻訳しているスペインの歴史小説だ。舞台は17世紀初頭のスペイン。主人公は軍人崩れの殺し屋、ディエゴ・アラトリステ・イ・テノーリオ。アラトリステは金を貰って見ず知らずの人間を手早く殺すのが仕事である。その彼がたった一度、情に流されて仕事をしくじったことがきっかけで、彼はスペイン王国の中枢で進行中だった権力闘争に巻き込まれていく。
彼の生きる時代、社会は、著者ペレス=レベルテによれば、上から下まで腐りきって偽善と背徳と迷信に満ちたものだったという。実際、この頃のスペインは南アメリカの先住民をほとんど絶滅させるということをやっているし、国内では悪名高い「異端審問」が猛威をふるっていた。そういう低劣なことをやっていた結果として、スペインの長い長い斜陽の歴史があったというのが著者の歴史観らしい。
ペレス=レベルテはそもそもこの本を、自分の子供のために書いた。祖国の歴史上に燦然と輝く「黄金の世紀」が実はどんなお粗末なものだったかを、わかりやすく物語の形で示そうとしたのだそうだ。それがどうしたものか本として出版され、大ヒットした。映画も作られた。主演はなんとビゴ・モーテンセンだ。「ロード・オブ・ザ・リングス」のアラゴルンだ。
(画像はたぶんその映画の中身。あくまで推測ですが、1枚目中央が主人公のアラトリステでその左が親友のケベードでしょう。2枚目の左はおそらく主人公の宿敵マラテスタ師匠。私の一番のお気に入り。3枚目の左はアラトリステの親友の遺児でアラトリステが親代わりになって育てているイニゴ君、のはず)
何故、祖国の恥ずかしい歴史を描いた本がそんなに売れたのか。僕にはわからない。ただ、著者のスペインへの愛は、翻訳していても痛いほどに伝わってくるのだ。なんて格好悪い、無様な、間抜けな、しかし素晴らしい我が祖国。
一方、日本ではここしばらく、自賛主義史観とでも呼べるような、日本無謬説的な言説が声高に唱えられている。日本の短所欠点瑕疵を最低限に見積もり、かつて日本に関わった国や地域のそれを最大限に多く見積もるマナーだ。だが、僕は彼らの言葉の中に日本への愛を感じられない。どうしたことだろう。ペレス=レベルテが念入りにスペインをこき下ろす言葉の中にも、これほどの深く揺るぎない郷土愛を感じるというのに。
文部科学大臣は国会での質疑で、愛国心をいかに教えるかと問われてこう答えたそうだ。「日本の歴史の中で貢献してきた偉人について教える」。僕にはピンとこない。既に通知票で「愛国心」を評価している小学校も50校以上あるという。馬鹿馬鹿しい。必要ならば僕は「愛国心」で最高の評価を獲ってみせる自信がある。要は「空気を読む」ことだ。期待される振る舞いを見事に演じてみせることだ。それで「愛国心:5」が貰えて競争社会のアドバンテージを得られるのなら、躊躇などしない。
学校で評価できる「愛国心」など、「空気を読む能力」の別名でしかない。60年前には日本中で「空気を読まない奴」をよってたかって迫害した結果、国が潰れた。ペレス=レベルテも同じ事を書いている。スペインの最大の過ちは異端審問所の暴走を許したことだと。当時のスペイン人は、自分こそが模範的キリスト教徒だと示す為には、誰かを異端審問所に告発するのが最善の手段だと考えていたという。「信仰心」と「空気を読む能力」を取り違えたのだ。だから「空気が読めない奴」から順に誣告されて異端審問にかけられた。しまいには親兄弟であろうと平気で異端審問所に売り飛ばしたという。
これにたまりかねたのがユダヤ系の資本家だった。ユダヤ教徒からキリスト教徒に改宗した家は、ユダヤ人扱いされて財産没収・族滅の憂き目を見る前にさっさと国外に出て行った。溜め込んだお金と商売のノウハウと取引先を持って、だ。
「愛国心」と「空気を読む能力」を取り違えた先にあるのは、概ね国の斜陽、下手をすれば国の崩壊なのだ。
だが、この二つを見分けるのは簡単なことだ。愛が、何かを愛するということそのもの以外を目的として存在しているように見えたら、それはきっと愛じゃない。そこにはトラップがある。考えてもみて欲しい。恋人や家族を愛するというのは、それによって何かの利得を得られるという打算の上にあるものではない。