国を愛するというのも一つの愛の形だ。そして愛の目的は愛することそのものにある。のはずなのに、国を愛するということが、猟官活動や選挙の票集めや雑誌の売り上げ拡大やルサンチマンの解消に差し向けられているとしたら、たぶんそれは愛以外の何かを多量に含有しているものだ。
これについては、2000年も前にパウロという男が巧いことを書いている。
「愛は寛容であり、愛は情け深い
また、愛は嫉むことをしない
愛は高ぶらない
愛は誇らない
愛は不作法に振る舞わない
愛は自分の利益を追求しない
愛は苛立たない
愛は恨みを抱かない」(新約聖書より「コリント人への第一の手紙」、13章4節および5節)
これをテキストエディタにコピーして、「愛」を「愛国心」に一括変換して読み上げてみる。「愛国心」のトラップに引っかからない為には案外有効かもしれない。
さて、僕はペレス=レベルテや、あるいはシェイン・マクゴアンの書いた物から強烈な愛国心を感じ続けている。彼らのマナーから一つ書き起こせる警句があるとすれば、それはこうなるだろう。
「自らの祖国をネタにして笑い飛ばせる奴は本物の愛国者だ」
笑い。「空気を読ませる」トラップの地雷原を無事に突破して、祖国愛のもたらす実りに到達する為には、笑いが必要なのだと僕は思っている。笑いとは何か。アンリ・ベルクソンは、機械的な振る舞いと人間的な柔軟性の間の齟齬こそが、笑いを生み出すと考えた。彼はこれを、社会のルールを破る奴は笑いものになるという意味で書いたのだが、僕はそれを裏返してみたい。
四角四面に「愛国的な振る舞いとはこうだ」と決めつけ、それに人間本来の曖昧さを嵌め込んで、人間性の価値ある部分を殺していこうとしている人々がいる。彼らは愛国的な振る舞いをスクエアに考えすぎている。彼らの考える「愛国心」のサイズは、人間の心の広がりを受け止めるには小さすぎる。だからそこからはみ出した心を切り落としてしまう。殺してしまうのだ。強制されてまで国歌を歌いたくはないなあという心を斬り殺してしまうのだ。
だが、パウロに従えば、そんなものは愛ではない。
僕は提案したい。「愛国心」のサイズを大きく取るのだ。一見、愛国心とは見えないような遙かな心の地平までも愛国心と認めよう。僕たちの心が思い切り伸びをしても、それでもつっかえないくらいに大きな場所を愛国心と呼ぼう。そして、僕たちの心と「愛国心」の隙間には笑いを充填しておくのだ。種々雑多な心を、笑いで繋げていくのだ。微笑んで受け入れる愛、苦笑いして見逃す愛、ひっくり返って哄笑する愛を詰めておくのだ。
僕たちは、そろそろ僕たちの住むこの土地と川と海について、僕たちの社会について、真面目に考えていかなければいけない。これらはきちんと手入れして次の世代に手渡していかなければならない。そこには本物の愛が必要だ。笑いに包まれた愛。笑いに繋げられた愛。日本列島への愛が。
笑いに媒介され、日本列島とその社会に愛をもって差し向けられた生活文化。
笑いを忘れては駄目なのだ。
(おわり)