表題のように、日本の学校の「国語科」では物語文に出てくる登場人物がこの場面では何をどう考えたかとか、どう感じたかとかいうことを考えさせて、答えさせて、正解不正解で採点するという教育をしています。
中3になると、さすがに無くなるか(笑)
ちなみに私自身は(残念なことに)こういう内容を答えさせるテストは小学校から大学入試までほぼ無敵でした。が、当時もアホくさいと思っていたし、今考えてもあんなもの役に立たねえとしか思えないです。
さて、こうした「登場人物のお気持ち問題」について、国語科教員の間で論争が起きています。具体的には
- 他人の考えていることなどわからないって言うけど、だいたいこの範囲に入るでしょってものがあるよね。
- 日本人の大半は、上に書いたような、ある一定の範囲内で物事を感じたり考えたりしているんだよ。
- 国語の授業で登場人物の気持ちを答えさせているというのは、「日本人の大半はこう感じたり考えたりするに決っている」という知識を身につける訓練だよ。
- この「日本人の大半はこう感じたり考えたりするに決っている」という知識を身につけられた人だけが、日本社会のメンバーとして認めてもらえるんだよ。
今の私は、物語文の学習でよく聞かれる登場人物の心情は、文章中に心情を表す直接的な表現がない限り、「分からない」が正解だと考えるようになった。様々な研究会や教育書などで学んだ結果、そう思うようになった。
物語文の登場人物の心情を問う授業では、文章中に直接的な心情(嬉しい・悲しいなど)が書かれていなければ、正確に読み取らせられるとは言えないのだ。
繰り返しになるが、最初に書いたように、同じ物を見たり、同じことを経験したりしたとしても、人の思いは様々だからだ。
学校の国語の物語文の授業では、心情を表す直接的な表現がなければ、心情を問う授業をするのは不適切だと言える。
しかし、「様々である」ということと「それが予測不可能なほど多様である」ことは全く別です。例えば、僕たちは誰に対しても「鈍器で殴られたら痛いだろう」とか「親族を亡くしたばかりのあの人は悲しい思いをしているだろう」と予測します。もちろん、予測が外れることもあるし、「悲しい思い」の内実も細かくは千差万別です。ですが、傾向として大まかな予測は当たることが圧倒的に多く、その予測の「幅」もある程度は決められます。
実際問題として、僕たちは言葉で表現されない相手の心情を推測していますし、それができなければ相手の出方が予測できず、コミュニケーションが成り立ちません(須貝さんも、さすがにそれは認めてくれると思うのですが…)。
(中略)
さて、その解釈の幅はなぜ決まるのでしょうか。それは、僕たちが同じ文化を共有している集団のメンバーだからです。僕たちは、「こういう時には普通はこういう心情になるだろう」「こんな表情をしているときはこんな気持ちだろう」という一定の「コード」(解釈のルール)を共有しています。いわば、同じ解釈共同体の一員なのです。厳密には一人一人は違うという立場を認めても、大まかな「幅」「傾向性」「妥当な解釈の範囲」は、共同体の中に明らかに存在します。
(中略)
例えば、物語の中で、家族と深刻な喧嘩をして登場人物が家を飛び出した時、重く垂れ込めた暗い雲から雨がポツポツ降り始めたとする。だとしたら、その情景は「その人物の暗い心情の反映」や「この先の過酷な状況の暗示」のように読み取ることが「普通」です。これが、僕たちがコードを知っている、ということです。この時に、「いや、人間の心情が天候を左右するのは科学的におかしい」「書かれていないことはわからない、他の可能性も排除できない」と抵抗したところで、仕方ありません。ここで問われているのは、「あなたがどう思うか」ではなく、「私たちの属する解釈共同体では、この場面ではどのようなコードに従って解釈するのが妥当か」だからです。問われているのは、あくまで「私たちの解釈共同体の妥当解」なのです。だから、そのコードを全く知らないと、答えることができません。答えは「本文の中」ではなく「本文の外」にあります。
こういう観点で物語文の授業を見てみると、教室とは「解釈共同体のコードとその適切な運用を教える場である」という側面を持ちます。まだ幼い子どもたちは、僕たちの解釈共同体のコードに必ずしも通じていません。そこで、教室では、心情描写や情景描写を読み取るという体裁を取りながら、教師は「私たちの解釈共同体のコードはこうですよ」「共同体の一員になるには、このコードを理解しないといけませんよ」ということを教えている。
ここで問われているのは、「あなたの解釈」ではなく「私たちの共同体における妥当な解釈」です。それを問いつつ、大人の代表である教員は、子どもを共同体の一員へと「馴致」していきます。われながら意地悪い言い方をしている自覚はありますが、学校の持つ「社会化」機能は、物語文の読み取りの授業ではこういう形であらわれます。
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
実際問題として、僕たちは言葉で表現されない相手の心情を推測していますし、それができなければ相手の出方が予測できず、コミュニケーションが成り立ちません
(再掲)
注:鉈は「なた」と読む。こういうやつな。
あなたたちが握りしめて生まれてきた「わからない」という鉈から手を離した瞬間、あなたたちは社畜ファクトリーで肥育される亥になってしまうよ。気をつけて! ほんとうに気をつけて!
はやぶさブック&トートとファザーズバッグagnate、奥渋のセレクトショップで置いてもらってます。