国語の授業で物語文の登場人物のお気持ちを推測させる問題についての議論を読んでいたら全身が痒くなったからつらい。

表題のように、日本の学校の「国語科」では物語文に出てくる登場人物がこの場面では何をどう考えたかとか、どう感じたかとかいうことを考えさせて、答えさせて、正解不正解で採点するという教育をしています。

最新の学習指導要領にもありました。
平成29年度告示学習指導要領より
小学校の5-6年次ではCの(1)のイにありますね。「登場人物の相互関係や心情などについて、描写を基に捉えること。」
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中1のCの(1)のイにも、これに該当する内容が示されています。
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中2はというと、多少表現は違いますが、同じ場所に似たような内容が示されています。
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中3は?
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中3になると、さすがに無くなるか(笑)

ちなみに私自身は(残念なことに)こういう内容を答えさせるテストは小学校から大学入試までほぼ無敵でした。が、当時もアホくさいと思っていたし、今考えてもあんなもの役に立たねえとしか思えないです。

さて、こうした「登場人物のお気持ち問題」について、国語科教員の間で論争が起きています。具体的には

意見1) 本文中に明示されていない「お気持ち」については「分からない」という答えが正しい派。
意見2) 日本社会には他人の「お気持ち」についての標準的な解釈があるのであって、国語科の「お気持ち問題」教育とは、その標準的解釈を正しく回答することを通して、日本社会においてこれらの標準的解釈を共有する共同体のメンバーになる訓練なのである派。
意見2はちょっと難しい書き方しましたが、噛み砕いて書くと、
  • 他人の考えていることなどわからないって言うけど、だいたいこの範囲に入るでしょってものがあるよね。
  • 日本人の大半は、上に書いたような、ある一定の範囲内で物事を感じたり考えたりしているんだよ。
  • 国語の授業で登場人物の気持ちを答えさせているというのは、「日本人の大半はこう感じたり考えたりするに決っている」という知識を身につける訓練だよ。
  • この「日本人の大半はこう感じたり考えたりするに決っている」という知識を身につけられた人だけが、日本社会のメンバーとして認めてもらえるんだよ。
そういう話です。気持ち悪くて書いてて全身が痒くなったけど。
意見1を主張されたのが須貝誠さんという方。国語科の先生だそうです。

今の私は、物語文の学習でよく聞かれる登場人物の心情は、文章中に心情を表す直接的な表現がない限り、「分からない」が正解だと考えるようになった。様々な研究会や教育書などで学んだ結果、そう思うようになった。

物語文の登場人物の心情を問う授業では、文章中に直接的な心情(嬉しい・悲しいなど)が書かれていなければ、正確に読み取らせられるとは言えないのだ。

繰り返しになるが、最初に書いたように、同じ物を見たり、同じことを経験したりしたとしても、人の思いは様々だからだ。

学校の国語の物語文の授業では、心情を表す直接的な表現がなければ、心情を問う授業をするのは不適切だと言える。

これに対し、国語科教育法クラスタ内の人気ブロガーである「あすこま」氏が意見2を展開して批判。

しかし、「様々である」ということと「それが予測不可能なほど多様である」ことは全く別です。例えば、僕たちは誰に対しても「鈍器で殴られたら痛いだろう」とか「親族を亡くしたばかりのあの人は悲しい思いをしているだろう」と予測します。もちろん、予測が外れることもあるし、「悲しい思い」の内実も細かくは千差万別です。ですが、傾向として大まかな予測は当たることが圧倒的に多く、その予測の「幅」もある程度は決められます。

実際問題として、僕たちは言葉で表現されない相手の心情を推測していますし、それができなければ相手の出方が予測できず、コミュニケーションが成り立ちません(須貝さんも、さすがにそれは認めてくれると思うのですが…)。

(中略)

さて、その解釈の幅はなぜ決まるのでしょうか。それは、僕たちが同じ文化を共有している集団のメンバーだからです。僕たちは、「こういう時には普通はこういう心情になるだろう」「こんな表情をしているときはこんな気持ちだろう」という一定の「コード」(解釈のルール)を共有しています。いわば、同じ解釈共同体の一員なのです。厳密には一人一人は違うという立場を認めても、大まかな「幅」「傾向性」「妥当な解釈の範囲」は、共同体の中に明らかに存在します

(中略)

例えば、物語の中で、家族と深刻な喧嘩をして登場人物が家を飛び出した時、重く垂れ込めた暗い雲から雨がポツポツ降り始めたとする。だとしたら、その情景は「その人物の暗い心情の反映」や「この先の過酷な状況の暗示」のように読み取ることが「普通」です。これが、僕たちがコードを知っている、ということです。
この時に、「いや、人間の心情が天候を左右するのは科学的におかしい」「書かれていないことはわからない、他の可能性も排除できない」と抵抗したところで、仕方ありません。ここで問われているのは、「あなたがどう思うか」ではなく、「私たちの属する解釈共同体では、この場面ではどのようなコードに従って解釈するのが妥当か」だからです。問われているのは、あくまで「私たちの解釈共同体の妥当解」なのです。だから、そのコードを全く知らないと、答えることができません。答えは「本文の中」ではなく「本文の外」にあります。
日本語で書かれた物語文に、「こう読むことを期待してるんだろうな」ということが見え見えのベタな解釈が存在することは確かです。池井戸潤の小説とか有象無象のラノベを読んでいると、そういうのばっかです。読んでいるとバカになりそうなので飛ばし読みしますけどね私は。だって誰でも100%予測出来る新しさゼロの定番ネタ展開なら読むのは時間の無駄じゃね?
こうしたベタ解釈の知識を国語科の授業で、点数評価を通して子供たちに強要する必要があるのかどうか。「あすこま」氏はあるという立場です。

こういう観点で物語文の授業を見てみると、教室とは「解釈共同体のコードとその適切な運用を教える場である」という側面を持ちます。まだ幼い子どもたちは、僕たちの解釈共同体のコードに必ずしも通じていません。そこで、教室では、心情描写や情景描写を読み取るという体裁を取りながら、教師は「私たちの解釈共同体のコードはこうですよ」「共同体の一員になるには、このコードを理解しないといけませんよ」ということを教えている。

ここで問われているのは、「あなたの解釈」ではなく「私たちの共同体における妥当な解釈」です。それを問いつつ、大人の代表である教員は、子どもを共同体の一員へと「馴致」していきます。われながら意地悪い言い方をしている自覚はありますが、学校の持つ「社会化」機能は、物語文の読み取りの授業ではこういう形であらわれます。

いつも私が申し上げているように、日本社会には思想信条の自由があるし、言論の自由もあります。だから「あすこま」氏はこういう主張を展開して良い。憲法19条な。

思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

では学校の授業でそれを実施することについてはどうか?
学習指導要領に書かれた文言の解釈の範囲内と言えなくもないので(指導要領そのものには、日本社会における物語文の妥当な解釈の知識を獲得した子に点をやれ、とまでは書かれていないけれどね)、まあ彼(彼女なのかもしれないですが)の裁量の範囲内でしょう。氏に教わる人は不運でしたがしょうがない。ガンバレ。何か変なものが伝染らないように気をつけて。
さて。
「あすこま」氏の主張は様々な視点から批判が可能です。例えば日本社会はそこまでベタベタに同質でもないですから、実際の社会生活において他人がどう感じ、どう考えるかを安易に判断するのは大馬鹿者です。パワハラやセクハラも、「あすこま」氏の主張のちょっと先にあるものです。だから真に受けちゃなんねえぞ。ありゃあ地雷原にご案内されてるようなもんだぞ。
また、テクストの作者がオフィシャルに「ここでこの登場人物はこう考えて、こう感じています」と解説したのでなければ、教師や教科書屋が主張する「妥当な解釈」が本当に妥当だとする論拠も無いですね最終的には声のでかさとか教師という権力で子供を殴って黙らせるしかなくなるわけで、その時、子供が学ぶのは、「妥当な解釈」ではなく「小学校の教師ってバカしかいないらしいぞ」という知識です(私がまさにそうだった)。
さらにさらに、我々の社会にはかなりの割合で発達障害とか不定形発達と呼ばれる人が生まれています。そういう人たちに多く見られる特徴として、俗に言う「空気が読めない」というものがあります。言い換えるならば、「あすこま」氏的「妥当な解釈」が本当に思いつかない、本当に理解出来ない、思いついたり理解出来たりは辛うじて可能であっても、そのコンセプトを受け入れることに多大なストレスを感じる。そういう人たち。
そういう人たちの精神を、教師の権力をチラつかせながら「これが妥当な解釈だからね。これを受け入れられないと仲間はずれになるからね」とゴリゴリとすり潰すわけですかそうですか。鬼畜ですか。冗談で言ってますよね? 国語の授業する前にまず憲法19条の「妥当な解釈」してみた方が良くないですか?
「あすこま」氏が、「妥当な解釈」を身に着けることを国語科の授業において児童生徒に強要することの正当性の理由として提示しているのは、以下のような話なのですが

実際問題として、僕たちは言葉で表現されない相手の心情を推測していますし、それができなければ相手の出方が予測できず、コミュニケーションが成り立ちません

(再掲)

はてさて。
私の記憶が確かならば、理解社会学ではマックス・ウェーバーもアルフレッド・シュッツも、他人とのコミュニケーションで本当に自分が相手の感じたこと考えたことを理解出来ているかどうかは、お互いのやり取りを通して修正を繰り返しつつ近似値に近づいていき、ある程度の近似値に行き着いたところで「理解したことにしても差し支えあるまい」という形を作るとしています(うろ覚え)。
コードを共有していることにして、共有しているふりをしない空気読めない奴は権力で殴って黙らせるとかしなくても、丁寧にコミュニケーションを取っていけば良いわけですね。じゃなきゃ私らは異国から来た人たちとコミュニケーション出来ませんものね。
言語哲学のデイヴィドソンも発話の解釈はその都度行われるので、共有コードなんて無いと言っていたのではなかったか? マラプロピズムね。
他にもフェミニズムとかポストコロニアリズムといった視点からも「あすこま」氏の主張はいくらでも批判出来るのですが、キリがないんでこれくらいにしときます。
では、親としての私はこの論争をどうジャッジするのか。
息子はまさに須貝氏の論考中にあるような「テクストに書かれていないことは知り得ないから答えようが無い」という立場を堅持する人間です。わからないからテストで出題されても解答しません。それくらいきっぱりしている。
私はそれを高く評価します。
何故ならば、先程も書いたように、現実には「妥当な解釈」なんて真に受けてたら地雷踏みまくってしまうからです。他人の考えや感情は知り得ない。そこから出発する姿勢は素晴らしいです。知ったかぶりはあかん。危ない。
これからの日本社会に必要なのは、「日本人ならばこう感じてこう考えるのは当たり前」なんて標準的解釈は無いんだよ、一人一人を「わからない」という前提から丁寧にコミュニケーションしていく必要があるんだよ、少なくとも「こう感じるのが当然だよね。違ってたら言ってね。」とか権力の強い側が言ったってハラスメントは回避出来ないよ、という知識です。
違ってたら言ってね、じゃないんだよ。んなもん言ってくれるわけねえだろ。
「あなたがどう感じ、どう考えるかは私にはわからないので、一つずつ確認しながら進めていきたいと思います。いかがでしょうか?」
これくらいからスタートしないとね。
特に私みたいな小さい商売では、ビジネスパートナーやお客様とのコミュニケーションは最大限の注意を払いますよ。「妥当な解釈」とかどこの地上の天国の話だよ(笑)そんなもんねーよ。一つ一つ確認だよ。
また、あるテクストに対してベタな多数派解釈と違うものを見つけられること、ベタな多数派解釈の根拠の無さを見抜けることは、これからの時代にはとても有利な武器になるとも私は考えています。他人が見ていないところを見ることが出来る。多数が思考停止に陥っているなかで自分の頭で考えられる。これを賢者と呼ばずしてどうする。
だからね。愚かな国語科教員がどんなもっともらしい理屈で丸め込みに来ても、たとえテストの点数が下がるぞとか、内申点下がるぞとか脅されたとしても、その「わからない」は決して手放してはいけません。その「わからない」こそ、あなたたちの人生の行く手に生えた雑草を切り払って道を造ってくれる宝の鉈です。たかが小学校や中学校の国語のテストの点数ごときの、あなたの人生にとって限りなく無価値に近いものと引き換えに売り渡してはなりません。ほんと小学校や中学校の点なんてどうでも良いぞ。チロルチョコレートの空き箱よりどうでも良いぞ。
注:鉈は「なた」と読む。こういうやつな。
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あなたたちが握りしめて生まれてきた「わからない」という鉈から手を離した瞬間、あなたたちは社畜ファクトリーで肥育される亥になってしまうよ。気をつけて! ほんとうに気をつけて!

念の為書いておきますが、物語文に登場する人々の心情の推測はすべきではない、と主張しているわけではないですよ。私もそういう知的遊戯は嫌いじゃないです。
しかしながら、「これが妥当な解釈。これを受け入れなければお前は仲間はずれ。」なんてジャイアンみたいな俺様ゴリ押しプレイになるんなら、時間の無駄だと考えます。宗派宗教の聖典解釈を宗教学校でやる時はそれで良いんでしょうが、日本の公立学校で正統解釈はこれだ! と強要して、(自分から見た)異端をテストの点数で迫害するとか正気かよ。貴殿たちはお気持ち十字軍かよ。
文学テクストはいかようにも読むことが出来るものです。少なくとも1970年代以降の文学研究ではそれが基本のはず。そのエッセンスを取り入れて、どれだけ多様な読みが一つのテクストに対して可能なのか、何故それらの読みが成立しうるのか、テクストのある部分の解釈変更がテクスト全体の解釈にどのような影響をもたらしうるのか、などを、様々なワークを通して考え、話し合うなんてのは素晴らしいですね。素晴らしい。
そんなの小学生に出来ないだろうって?
いやいやいや。うちの(テクストに書かれていない登場人物の心情なんかテストで聞かれても答えようが無いというスタンスを断固貫く)小6は友人たちと共同でオトフリート・プロイスラー『クラバート』(1971)の解釈専門のウェブサイト立ち上げて運営してますから。意識高い小学校じゃない、普通の市立小学校の、中学受験しない組ですよみんな。