小林さんの『沖縄論』の話。もうちょっと続けます。
少し気になったのは、沖縄を日本と同一の民族だと断じている点ですね。私は沖縄や北海道には、かなり毛色の違った人々が住んでいたと考えていますし、ホクレア号もたぶんそういうことを考えて日本に来る。
ところが小林さんは薩摩藩による琉球侵略を「同じ民族による外圧」というアクロバティックな言い回しで表現しておられまして、その論拠として「gm血液型遺伝子やmtDNAの分析の結果、沖縄人は中国よりも日本本土の人間に近い」ということと、近世に琉球を訪れた白人の手記には「琉球の風俗や言葉は日本本土と見分けがつかなかった」とあることを挙げています。
ちなみにgm血液型遺伝子云々というのは、おそらくこのデータを見ての主張だと思いますが、
あれれ? 青色遺伝子の出現頻度で見ると、日本本土と沖縄よりも、日本本土とバイカル湖のブリヤート族や甘粛省のチベット族のが近いですよ? ブリヤート族やチベット族は日本民族なんですかねえ? というか、こういう量的な尺度を「民族集団」という質的な尺度に変換する際には、どうしても恣意的な変換基準を設定しないといけませんから、小林さんがやりたいような議論に援用するのは無理があるんじゃないのかなあ(笑)。いわゆる一つのゲリマンダリング(恣意的な線引き)。
あと、ポッと通りがかった白人の印象に依拠しただけで琉球と日本本土を同一民族と主張するのも無理がきついですね。このレベルの論理展開だと卒論指導でも赤ペン乱れ打ちの刑だと思います。普通、言語学では、独自の文法を備えている事が、方言と別言語を見分ける基準になりますから、小林さんの本に即していえば、当時の琉球語と日本語が文法上同一であると主張した言語学の論文を引いてきて、それに対する反論の論文があればそれも参照して、どちらの主張がより説得的かを論理的に比較検討して、という作業が求められます。自分に都合が良い記述だけつまみ食いしてはいけません。
しかしまあ、日本には言論の自由というものがありますから、小林さんの主張もまた世に問われる権利を持っています。頑張ってくれ。色々な意見があるのが健全な民主主義社会だし。もう少し論理の穴を繕ったほうが良いとは思うけどさ。「わしは勉強すればするほど・・・・と思うようになった。」と表明するのはいいですが、どんな資料、どんな文献を読んで、その中のどの記述をもとに、どんな論理でそう結論したのか、一切書きませんからねこの人。それじゃあ小林さんの意見を盲信する(したい)人以外には、説得力ゼロですがな。
私は、民族という概念は結局のところ恣意的にしか成立しないと思っています。だってDNAで言えば、人類全体のDNAの多様性よりも、アフリカの一つの森にいるチンパンジーの群のDNAの多様性のほうが遙かに大きいんだから。それに、DNAの違いはあくまでも「この地域の集団にはこういった遺伝子座が比較的多く出てくる」という、確率の問題としてしか表現出来ませんから、「この集団にはこの遺伝子座があり、それ以外の集団にはこの遺伝子座は絶対に現れない」という言い方が出来ません。また、小林さんは、遺伝子のパターンに階層クラスター分析のような数学的根拠があるグループ化を施した結果として「沖縄人と日本本土人は同じグループ」と言っているわけでも無いですからね。まさに恣意的。
ですから、私は「民族」という言葉が出てくる場合、その概念を使って誰が何をしようとしているのかに、まず注意を払うべきだと思っています。端的に言えば、破壊とか対立とか憎悪を産み出す為に「民族」という言葉を使う人の意見には、乗らないようにしているということです。小林さんの場合は沖縄人と日本本土人を同じ「民族」と規程することで、中国や台湾やアメリカへの憎悪を煽っていますから、私としては黙ってツモ切りですね。同じように、沖縄方面の人でもやたら「うちなー」とか「やまと」とか区別したがって、「やまと」への憎悪を燃やしているような人は相手にしないことにしている*。
私がホクレア号の物語にまず感動したのは、彼らが「ポリネシア人」「先住ハワイ人」という「民族」の概念を使いながら、それを社会福祉とか異文化間の融和とか平和の創造に差し向けているところでした。「民族」が憎悪や対立の道具にならない可能性があるんだということを、ホクレア号は教えてくれているんです。素晴らしい。
* 以前大学に通っていた頃にまさにそういう手合いがいて、自分のルーツを「琉球弧」としてしつこく強調しながら、「琉球弧」の人々がいかに「やまと」に迫害されてきたか、そればかりを語っておりました。そういう自分自身が日本国の文教予算を特権的に使っている東京大学に通って、さらには日本国民の税金から出されている毎月数十万円×数年間の給付奨学金を貰っているということをどう説明するのか、一度訊いてみたかったですよ。