『いのちを産む』

 写真家の宮崎雅子さんが写真担当で参加された本が出版されました。

大野明子・宮崎雅子『いのちを産む:お産の現場から未来を探る』(学研、2008年)

 宮崎さんとは周防大島や横浜でお会いしたのですが、え~っと、芝生の上で母性本能について熱く語って(というか叫んで)おられた姿が非常に印象深かったので、こうした仕事をされているのも非常に納得がいきます。

 この本は、杉並区で産婦人科の医院「明日香医院」を開業しておられる化学者の(東大で理学博士を取得した後に産科医に転身されたという面白い経歴なのです)大野さんが、ご自身のこれまでの経験を振り返りながら、ヒトの妊娠そして出産という営みについてわかりやすく論じられたものです。
 宮崎さんは長年、大野さんの明日香医院で出産の撮影をしていらっしゃるそうで、この本の中にも宮崎さんの撮られた分娩時の母子の写真が沢山。中には何が写っているのかしばらく考えないと判らないカットとか、しばらく考えても結局私には判らないカットもあります。私、息子が生まれる時には妻の右斜め後方に居たので、実際にお腹から出現する様子は見ていないんですよね。

 さて。この本は大きく分けて三つのパートから成立しています。一つは大野さんが、ご自身の医院で実践しておられる、なるべく自然な分娩をするという手法について。例えば妊娠中は毎日3時間の散歩を義務づけるなど、妊婦さんの肉体的コンディションを分娩に向けてじっくりと整えていく手法、同時に妊婦さんの精神的なコンディションにも気を配って、心身のコンディションが良い状態にあることが、スムーズな分娩の実現には経験的に有効だというような指摘は、私のように身体論を専門にしている哲学者にとっても腑に落ちる論です。

 それから、巻末には龍村仁さんと大野さん、宮崎さんの鼎談。実はガイア・シンフォニーの5番に登場した出産シーンの撮影は大野さんの産院で行われたのだとか。

 三つ目は、現在の日本の産婦人科医療を取り囲む、非常に厳しい状況の解説。

 この三つ目がですね。読んでいると気持ちが沈んでくるようなお話のオンパレードなんですね。産婦人科医の激務(32時間連続勤務が当たり前って・・・)、モンスターペイシェント(モンスターペアレントの患者版です)の出現、国の医療政策と現場の状況の乖離。大野さん自身、研修医時代の激務で片方の耳が突発性難聴になり、そのまま聴力を失われたとか。だから特に女性の産婦人科医というのは、とてもじゃないけど子育てと仕事が両立出来たもんじゃないと。

 これね。よくわかります。私の妻がお世話になった産婦人科のお医者さんも女性で、妊婦さんたちから本当に慕われ信頼され愛されていた、素晴らしい方だったんです。でもうちの息子が生まれてからすぐに、病院を辞められた。現在は岡山の方で非常勤で診ておられるそうですけれども、あんな我が市の宝のような人材が何故、流出してしまうのかと当時は憤ったもんでした。でもこの本を読んだら全てわかった。

 今の日本の産婦人科医は人間扱いされていないんだ。

 それにしても口惜しいのは、日本の産婦人科医の置かれた状況が、日本の学校教員の置かれた状況とうり二つであるということ。激務、肥大した消費者意識を抱えて暴走する一部の市民、単純極まりない善悪の二項対立図式に当てはめて有資格専門職を叩くマスコミ、人員配置の効率化による人件費削減を掲げる国の政策。そして先進国中でもGDP比では最低レベルの医療費や教育費。

 私、思うんですよ。あの「お客様は神様です」というフレーズ、あれこそ地上最悪の呪詛の言葉なんじゃないかってね。経済学では貨幣経済というのは、売り手と買い手を対等の存在とします。ただしここには、売り手も買い手も、お互いに納得しての取引が行われるという前提があります。売り手は、相手が気にくわなかったら、相手の付けた値段が折り合わなかったら、取引を断る権利がある。本来は。ところが医療や公教育のような公共セクターの業務は、なかなかそんなわけにはいかない。

 例えば目の前で病気や怪我で苦しんでいる人が居たら、取り敢えず治療して、支払いのことはその後で相談するでしょう。少なくとも日本ならば。教育だってそうです。公立学校は余程の事が無い限りは、児童や生徒や保護者を学校から叩き出せない。教育委員会が許さない。つまり教育や医療関係者は、不愉快な客、代金に見合わない手間の掛かる客との取引をお断りすることが出来ない。しかも教育や医療のように不確実な部分が多くて、上代20000円メーカー保証付きiPODみたいに、誰でも同じだけのお金を払えば全く同じ性能を持つ品が手に入るなんてことが無い分野でも、近頃のお客様は容赦が無い。自分はお金を払ったんだから、自分と同じだけのお金を払った人間と同等かそれ以上のものが提供されなければ許せない。うちの子が隣の子より成績が悪かったら、それは「隣の子と同じだけの学力をうちの子に付けさせられなかった教師の裏切り」となる。

 だってそうでしょ。消費ってのは1000円払ったら誰でも同じ1000円分の商品が手に入るじゃない。だったら教育だって、みんながテストで80点取れたなら、うちの子も80点取れなければおかしい。な? 

 でもねえ、そ~んなことをみんなしてやっていたら、結局はみんなが損するんだよなあ。「合成の誤謬」というやつです。あるいは「コモンズの悲劇」。自分だけは絶対に損しないでおこうと思って我先に公共財を奪い合った結果、公共財が消耗し尽くして丸ごとおじゃんになってしまうという笑い話。ってこれ、笑えるか、おい?

 まさに大野さんが指摘している通りです。医療というのは本来消費の対象じゃない。教育もそう。それは必要だと社会が合意した結果、それを利用する人も利用しない人もみんなでお金を出し合って整備運営している公共物なんです。公園や市民会館と同じ。公園や市民会館の年間利用権を、毎年払っている住民税額に応じて分割して寄越せとか言い出す人が居たら皆さん馬鹿だと思いますよね? 私は思う。公園も市民会館もそれ全体で一つの施設であって、全体をみんなで順番に利用出来なければ意味がない。市民一人当たり何平方センチに細分されていて、自分用の空間以外は使えない市民会館とかどうですか? 意味無いでしょ。

 それと同じです。公共財は公共財でみんなが気持ちよく利用する為のマナーがあるし、そこで必要になるマナーは「消費者の権利主張」とは全然違う種類のものでしょう。

 そんなわけで、この本は心温まる素敵なお話と、極めつけに鬱なお話の両方が詰まった、何とも極端なコントラストを見せるものとなっているのでした。あ、でも名著ですよこれは。必ず読むように。