すーぱーぐろーばる教育でみんなシヤワセになれるほど人生はシンプルではないと思った

同志社の付属の超国際的高校を訪問したという気鋭の経営学者さんが、語学留学や異文化体験は高校までで済ませておかないと出遅れると書いておられて、また出たなタムコー主義者と思いました。
シンガポール移住や国際バカロレアといった商品を高値で売りつけたい向きが、定期的に「やっぱこれからは東南アジアの国際バカロレア校で英語と多文化しないと人間終わりじゃん?」みたいなステマを流しておられます。私はいつもは反応しませんが、昨日これに関連した相談を受けていたので、それに絡めて思うところをまとめてみたいと思います。
論点は二つです。
一つ目は、経済力と自由の相関について。
お金いっぱい持ってたら自由なんですかというお話。
昨日のテーマはココ・シャネルでした。ココは両親が離婚した後、父親にネグレクトされて孤児院に入り、学問も無く今の日本で言えば高卒フリーターみたいな形で社会人になりました。そこからたまたま知りあった上流階級の男たちの出資によって起業。いわゆるひとつのセレブに成り上がって行きます。
たしかにココはグローバルに成功した。お金もいっぱい手に入れた。
では彼女は自由だったのか? 幸福だったのか?
少なくとも自由だったようには私は思わないのです。学問も無い孤児が成り上がろうと思ったらビジネスで勝つしかない。でも女性がビジネスで大勝ちしたとして、その女性がのんびり落ち着いた主婦の生活を選ぶことが出来るでしょうか? ココは奔放に生きたように見えますが、他の生き方が許されたのかと考えると、経営者としても一人の女性としても、少ない選択肢の中で最大限に勝ったとは言えますが、自由だったかというと。違うんじゃないか。
私の知人の経営者、そりゃもう東証1部社長から自営業だけど年収億に届きそうな人まで、色々知ってますが、いっぱい稼ぐってそれだけ責任もいっぱいなんで、自由には見えないな。
もう一つは、経済力と幸福の相関あるいは因果関係について。
お金が大事なのは確かですが、ある程度以上あったら、その先はあまり幸福の原因にはならないんじゃないかと私は思っています。例えば私の幸福においてかなり重要な要素は、「毎日2時間、自宅の寝室で昼寝出来る」というものです。「毎日、家族の食事を作って一緒に食べる」「毎日、息子におやつを出す」というのもあります。
この観点で、私の知る限り、私より幸福な毎日を生きている男を私は知りません。ぐろーばるえりーとなんか毎週飛行機に乗せられて可哀想としか。
夕方、羽田からサハリンやウラジオストクや上海に飛んで、到着したらすぐ商談、とんぼ返りで出社。FB見てて気の毒になります。
かように考えた時、幸福になるためにまず大事なのは、何が自分の幸福の必要条件なのかを正しく定義出来る能力です。タムコーのブログに登場出来るのが自分の幸福なの? 気鋭の経営学者にツイッターで褒めてもらえたら幸福なの? バカなの? 死ぬよ? 
常にその時点での自分の幸福の条件を定義出来ること。その条件をその都度実現出来る状態にあること。これが真に追求すべき自由です。これらが、というべきか。幸福を定義する自由。それを実現する自由。
このうち前者を手に入れるには、傍から見たら無駄かもしれない時間が必要なのではないか。これは仮説です。色々考えて試してみる時間。グダグダする日々。今日も多くの教え子たちがグダグダしながら迷い悩んでいるに違いないです。そこは一概に焦らせたり煽ってもしょうがないことを私は学んでいます。寝かせる。放っておく。酒や生ハムのように。しかし必要に応じた手入れも行う。酒や生ハムのように。
すーぱーぐろーばるえりーと、ではない若者たちの迷い悩み焦り墓穴を、時には1年2年と完全放置もしながら、相談に来た時にはきちんと答えてやるというようなボランティアのかばん屋さんが、今日もすーぱーぐろーばるえりーとけいえいがくしゃの知らないところで、日本社会を支えています。ここだけの話なんですけどね。