ネット上のコンテンツを対象にした研究の宿命と集合知

立命館大の近江氏の研究報告を受けて、Pixivに公開されていた小説が非公開になったり限定公開になったりしています。


この状況に対し、研究の追試が出来ないような研究に意味があるのか、という議論があります。


しかしながらこうした研究は、実はいくらでもあります。


考古学の発掘調査の報告書。多くの遺跡は調査後に破壊されたり埋め戻されたりしますから、再確認は出来ません。


人類学や社会学のフィールド調査。フィールドノートに記録された事象は1回限りなので、動画でも残っていなければ再確認出来ません。インタビューも同様です。動画や録音が研究者の手元にあったとしても、それを第三者に公開することは普通はしません。


未公刊の手稿や書簡の研究。そのテクストの現物へのアクセスが極度に制限されている状態ならば、事実上は再確認は出来ません。


自然科学の実験だって、追試しても同様の現象が確認出来ないものが論文になっている例は、全体の数割というオーダーであります。


ですから学術研究は、お互いにフェイクやチートをしていないという前提で行います。STAP細胞の小保方氏のフェイクの発覚に時間がかかったのも、そういう「お互いを信用する」という習慣があったからです。


同人作品研究も同様で、基本的には研究した人を信用しておきます。重要なテーマであれば、他の研究者もまた別の資料を用いて同じような研究をするので、時間経過とともに、複数の研究者が別々に研究した結果による投票の状態になります(多数決というほど単純ではなく、どちらかというとボルダルール的な流れです。詳しくは坂井豊貴『決め方の経済学』(ダイヤモンド社、2016)をお読みください)。そうなると、なかなか人間は間違えないものです。


逆に、あまり重要でないテーマならば集合知による深化はなかなか進みませんが、あまり重要ではないのでそれはそれで合理的な資源配分なのです。


同人作品を引用する時に、作者に声掛けをするという解決法も提案されています。
このメリットは、自作が広く外部に知られても構わないという作家の作品のみが研究対象となるので、なかなか対象テクストが消滅しないという点です。
デメリットもあります。このやり方では、テクスト選択の段階で「外部読者への姿勢」によるフィルターがかかりますから、研究対象は無作為抽出ではなくなってしまいます。


結局のところ、個々の研究者が自分の研究目的を考えながら、何が最適なやり方かを探りつつ進めるしか無いのだと思います。