先生は許しません

 この春、大変話題になった文章がありました。立教新座高校の渡辺校長がお書きになった卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。という文章です。

 中でも白眉とも言えるくだりがこれ。

 誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。
 大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
 言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。
 中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。
 大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。
 大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。
 池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。
 「今日ひとりで海を見てきたよ。」
 そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。

 今年度の3年ゼミの2回目の講義、2名の学生が無断欠席しました。その後のメールでの状況確認にも応じず、当然ながら私が指示したグループ課題の作業にも加わらず。最後に私が「水曜の20時までに無断欠席と課題不参加の理由を文書で知らせなければ、以降の演習参加を禁ずる」というメールを書いて、それぞれの携帯電話のアドレスに転送させたら、ぎりぎりになって連絡があった。その欠席理由というのも、渡辺校長が言うような象徴的な意味ではなく、単に寝坊したとか気まぐれでとかの類。

 たしかに同じ学科内にも、半年で2回出席したら単位が出るとか、授業開始時刻を45分過ぎても半分も学生が来ていないとかの伝説的な演習もあります。ですが、私の演習がそういう場所ではないということもまた、周知の事実。昨年度に履修者選考を行った時から明言しているように、この演習は学外の社会人の方々と協働でプロジェクトを遂行するというコンセプトであり、一般的な企業社会と同レベルのコンプライアンスやマナーが求められるのです。

 今回発生した事案は、一般社会に移し替えれば以下のような状況です。

月曜昼・社内会議で報告予定の新入社員2名が何の連絡も無く会議を欠席。取引先に当該社員が立ち寄っていないか確認の電話を入れるも行方不明。
月曜夜・会社からの携帯・PCへのメールにも返事無し。
火曜午前・引き続き連絡取れず。
火曜午後・事件や事故、重大な傷病の懸念が現実味を帯び、人事部が調査開始。
水曜午後・「寝坊したのでばっくれた」「友人と遊びに行っていた」との連絡が入る。

 こんな社員は営業にはとてもじゃないですが怖くて投入出来ませんね。それと同じ。とてもじゃないですが怖くてフィールド調査に投入出来ません。「フィールド演習」なのに。

 そりゃあ教科書の内容をきちんとマスターして試験答案を書ければ単位が出る講義なら、寝坊しようが海に行こうが良いと思いますよ。でも、グループワークが基本で、フィールド調査に必要な技術や倫理観、マナーを学ぶ演習でそれをやらかすのは、愚か者です。

 次に無断欠席や遅刻をしたら、その場で演習参加を禁じるというのが私の処分。おかしいですか?