中山文科大臣が昨日、総合的な学習の継続方針を示しました。
おそらくは文部科学省の官僚に「ご説明」を受けて、ようやく学力低下論と総合的な学習の短絡が床屋政談レベルの議論であることに気づいたのではないかと推測します。そういう人を文科大臣にする総理大臣の考えも興味深いですが、それは置いておきましょう。
ともかく、現在の枠組みがそのまま残るかどうかはわかりませんが、一般的な概念としての総合的な学習は続けられるようです。おっと、ここで「一般的な概念としての総合的な学習って何?」と思われた方も多いでしょうから、少し解説しましょう。
ご存じのように、私たちが日本の公教育で受ける教育は、国語算数理科社会というように、個別の教科に分かれています。国語の時間には標準日本語を学び(日本国内でもアイヌ語や琉球語、日本手話などマイノリティ言語はありますが、これらは通常は教えられませんね)、算数の時間には算数を学ぶ。あたりまえじゃないの。
いやいや、それがそうでもないんですよ。教育に関する思想(教育思潮、なんて言います)の歴史の中では、単科学習中心主義と総合的学習中心主義が交互に現れては引っ込みということを繰り返して来ました。そもそも子供が学ぶべき内容を個別の教科に細切れにしておき、それらを一渡り学べばそれで世界の全体をある程度掴んだ事になるという考え方そのものが、近代ヨーロッパ的な還元論的思考の産物です。全てを細切れにして子細に検討すれば、元の全体が理解出来るというやつですね。
しかし19世紀後半には早くもドイツで「合科教育Gesamtunterricht」という考え方が現れて来ますし、日本でも第二次大戦後にはコア・カリキュラム運動や生活単元学習という考え方が主流になり、さらにそれが「学力低下論によって」単科教育中心に切り替えられたり、そうすると校内暴力の嵐が吹き荒れたりしたのでまた方向修正が入って「総合的な学習」が登場し、すると今度は「学力低下論によって」単科教育中心に・・・・・
日本人って鶏頭なんでしょうかね? 朝三暮四の説話に出てくるお猿さんじゃあるまいしねえ。ともかく、こんな感じで総合的な学習そのものは長い歴史があり、そういう長い歴史を持つ総合的な学習は、「総合的な学習」の時間としてかどうかはともかく、今後も続くと。そういう事です。
さて。本題。ホクレア号の草の根サポーターである私は、このニュースを見て真っ先にこう考えました。
「総合的な学習が残るんなら、ホクレア号やエディ・アイカウの事を総合的な学習で勉強してもらう指導案を作って、売り込めないか?」
みなさんはご存じないかもしれませんが、実際に学校で教えている先生方というのはとてもとてもとても忙しく、「総合的な学習」の指導案を作れと言われても、本来の専門の教科学習の教材研究さえままならないのが当たり前の日々です。だから「総合的な学習」の指導案集なんてものが沢山売られている。だったらホクレア号の物語をテーマにした「総合的な学習」指導案も作ってやればいい。
ナイノア・トンプソンやマウ・ピアイルグのスターナヴィゲーション・システムは理科の学習テーマに持ってこいです。天体のこと、海のことが有機的に結びついたテーマですからね。ポリネシア植民史や近代ハワイ史は世界史の学習に。ハワイ先住民問題は公民の学習に。エディ・アイカウやハヴァイロア建造の物語は倫理学(道徳)の議論のテーマに。ポイやポキを作って家庭科の学習、フラは音楽科で。思い切ってダブルカヌーの模型を作ってみるというのはどうでしょう? ホクレア号の資料は英語中心なんで、英語の勉強にもなる。そして、ホクレア号の物語を学んだら、今度は自分たちの郷土に目を向けて貰う。
う~ん。素晴らしい。何が素晴らしいって、ホクレア号の宣伝のついでに重層的な「総合的な学習」も出来てしまう。いや逆だ。「総合的な学習」のついでにホクレア号の宣伝も・・・・
こうやって草の根の宣伝活動を続けていけば、ホクレア号を呼ぼうという雰囲気も盛り上がるでしょうしね。うむ、ちょっと真剣に考えてみよう。どなたかこの「ホクレア号で総合的な学習の陰謀」プロジェクトに賛同していただける方、ご連絡下さい。