先日、書店で妻子を待っておりましたら、『ホームレス博士』という新書が平積みになっておりました。
日本の博士課程院生や博士課程修了/中退者の就職状況が極めて悲惨なことになっていることについて問題提起を続けている水月昭道さんの3冊目の新書です。
手にとってさらさらと飛ばし読みしてみたのですが、どうにもこうにもアカデミアの毒が手に付着して取れなくなりそうなんで、深入りせずに棚に戻した私です。
私も博士号を持っていますし、ここ数年は母校で非常勤講師の仕事をさせていただいております。非常勤講師の給料というものが殆ど無いも同然なのも知っています。というか私、給料明細とか見てませんけどね。どうでも良いから。非常勤講師というのは、基本的には有給ボランティアだと私は考えています。プロの仕事を原則無料で提供する。非常勤講師の給料は、労働に対する報酬ではなく、ボランティア活動に対する寸志。そう思います。
では、何故、私たちはボランティアで教えるのか? ボランティアが居なければ日本の大学教育は成り立たないし、日本の大学の中には、ボランティアによって存続させる価値がある大学もそこそこ見られるからです。
その大学の社会的な意義や掲げるミッションに共感するからこそ、ボランティアで教える。それが非常勤講師のあるべき姿ではないでしょうか。ところが現状では、博士課程に進んだ方々のほぼ全てが将来は大学の専任教員になりたいと考えており、専任教員になるためのキャリアパスとしての非常勤講師歴を是が非でも掴みたいと渇望している。あまつさえ、ボランティア活動に対する寸志を掻き集めて生計を立てようとする方もいる。だから、どんな大学でも、言い方は悪いですが有り体に言って「本来は存続する価値が無いような大学」であっても、非常勤講師のなり手に困るということがない。
J-RECINという、研究者のための求職データベースには、おそろしいことに非常勤講師の公募などというものが並んでいて、タダ同然の給料にも関わらず、研究歴だの履歴書だの代表的な論文の抜き刷りだの教育計画書だのを提出させて、面接も(もちろん交通費は応募者持ちで)やる・・・・ということが、当たり前のように行われています。あれは絶対おかしいと思う。勘違いしているとしか考えられない。
この「誰も彼もが専任教員を目指す」ことの弊害は本当にアカデミアを覆い尽くしていて、専任教員を目指していない人間、例えば私なども「専任教員のポストを血眼になって探し求めていて、専任教員の足の指をしゃぶってでも非常勤講師のポストをもらおうとしている人」という目で見られるんですよ。本当に。失礼な話ですが。
たしかに立教大学で教えるのは、私の魂が燃え上がる素晴らしい経験であり、仕事です。でも、他の大学でそこまで熱くなれるのかどうか私には自信が無いし、そもそも専任教員という仕事に魅力をあまり感じられない。J-RECINの専任教員の公募一覧を半年に一度くらい眺めるんですが、「この仕事、このポストは是非やってみたい」と自分の中で沸き上がってくるものが全く無いんです。だって、どんな学生さんがいて、どんなミッションを掲げて、どんな教育をしているのか全然知らない大学ですからね。とにかく大学教員なら何でも良いという人たちはそれでも履歴書を送られるんだと思いますが、それって仕事の選び方、働き手の選び方として正しいのでしょうか?
昔テレビで見た、ニューヨークのイタリア食材店のおやじさんが、仕事の選び方についてこう言っていました。
It's not about money. It's about where your heart and soul is.
(カネの問題じゃない。お前の心と魂がどこにあるかという問題なんだ。)
まさにその通りだと思います。
私、学問はやりたいからやりました。やらなければ生きている価値が無いと思うテーマがあったから。母校の非常勤講師は、母校と後輩たちを支えたいという情熱でやってます。でもせっかくこの世に生まれてきたのに、アカデミアでしか仕事をしないなんて、私にはつまらなすぎる。いずれ、育児が一段落したら、もっと別の分野で働きたいと思っています。
それにしても、せっかく皆さん良いアタマを持って生まれてきたんだから、もっと上向いていきましょうよ。専任教員になって借金返す以外に夢は無いのかよ。皆さんが「Fランク大」とか「底辺大」とバカにしているような大学を出た人たちの中にも、腕っぷし一本で世の中渡っていっている方々が沢山いらっしゃるというのに、旧帝大で博士号まで取った人間が斜陽産業の正規雇用にありつくことしか眼中に無いってどうなのよ。
と感じた次第です。