息子が小学校から持ち帰った真っ白なプリント
「モチモチの木の中で霜月二十日の話を聞かされた豆太の気持ちを想像して書きましょう」
なんだこれと聞いたら、考えたけど分からなかったから、間違いを書くよりは白紙が良いと思ったというクールな説明でした。
私「うむ、確かにわからないよな。父ちゃんも昔はこういうの捏造するの得意だったんだが、今じゃ全然出来なくなった。(国語の勉強は一度もしたことないですが点数は常にトップフライトでした私)」
息子「だよなあ」
私「テンション上がったとか、ヤバイと思ったとか、どうとでも取れること書いておくのはどうだ?」
妻「何も書かないよりマシではあるね。」
私「そもそも全く異なる時代の子供の感じ方なんか分かるわけないと書くのは?」
妻「私はそういうことを小学校で書いて低く評価されてきたね(文学部日本文学科卒)」
私「豆太のような貧困層に成り代わって我々がその気持ちを語ることは、自らの思想を語る言葉を持たない人々を抑圧する行為であり、ポストコロニアリズムを経た今、許されないのではないか、とか書いておいたらどうだ。」
息子「難しい」
私「そもそも文章化されていないことを勝手に想像するのが何で国語の勉強なんだ?」
妻「まあそう固いことは言わず・・・」
私が大学で、あるいはビジネスで色々な人たちの文章を読んで直していつも思うことですが、日本の国語科教育は20世紀以前の文学研究の考え方をさっさと抜くべきです。
お前が何を感じたとか何に感動したとか、登場人物の気持ちがヘチマだとかそんな話よりも、まずは書かれている文章から事実関係と論理構造をきちんと読み取るリテラシーを。簡潔で論理的で明解な文章を書くスキルを。
ついでに言っておきますと、対人コミュニケーションでも安易に他人の気持ちなど想像するよりも、
「自分は相手のことを全く知らないし、理解出来るかどうかもわからない」
という前提を堅持した上で、真っさらな状態でコンタクトする方が良いと私は思います。社会学のフィールド調査では特にこれは大事です。文学研究で作中の人物の思考を仮想する手法はアリですが、それは文学だから。フィクションだから。
豆太も非実在児童ですが、せめてこういうことを学校でやるなら、
「フィクションで遊ぶのは良いけど、現実の他人の気持ちは安易に類推したら危険ですよ」
と注意書きしておくべきやね。