すみません。タイトルはエログ風にしてみました。やゑさんの実験の結果、エントリーのタイトルがそれ風だとヒット数がハネ上がるらしいので、実験。
ですが、お話の中身はエロくありません。
前回の書き込みをちょっと補う意味で、今日は別の角度から伝統文化や歴史について考えてみます。
前回の書き込みでhaji_ca2さんがコメントしてくれたように、現在の日本国では、「ナニナニ人*1」としてのアイデンティティをあまり意識して生きていない方も少なくない。もちろんそうじゃない人も沢山いて、私が大学で出会った方々の中では、在日朝鮮人の方やごく近年日本国に帰化された家系の方、沖縄県出身の方、身体障害者の方などは、いずれもこういった問題に強い関心を抱いておられます。特に沖縄の方は非常にわかりやすくて、沖縄っぽい苗字の方の卒論や修論発表を拝聴すると、ほとんどが沖縄についてのテーマを選んでおられました。今でもそんな感じなのでしょうかね。
しかし、「ナニナニ人」としてのアイデンティティというものが必要になる場は実は限られています。一言で言えば、国家の首脳や政府の間での国際交流に限られない、様々なレベル(旅行や貿易や留学や移民や戦争)での異文化交流が始まった時です。ですから、必ずしもアイデンティティを常に意識していなければいけないとは私は考えません。
私が敢えてここで日本の伝統文化や歴史を学んでみようと提案しているのは、次の二つの理由によります。
一つは、国際交流を通して平和で健康な世界を築いていく為。日本列島という地域のありようは、いまや世界全体に影響を及ぼします。日本列島の住民のみんなが(乗りもしない)ミニヴァンを買い込んで燃費リッター6kmで走り回ったり、真夏に長袖のスーツを着込んでクーラー全開にしていたりすれば、以前にも紹介しましたが、ミクロネシアの島々やモルディブで海面上昇が起こって国が消えてしまう。そういう事を防ぐには、日本列島の外について知らなければいけないし、その為には日本列島の外と交流しなければならない*2。
だとすると・・・・・「ナニナニ人」としてのアイデンティティがどうしても必要になってきます。
もう一つは、現在日本の社会が抱えている問題を改善する手だて「の一つ」として、伝統文化や歴史を学ぶ事も悪くないと考えているからです。
現在の日本社会が抱えている問題とは、つまるところ「不寛容」です。周りにいる人々に優しくする心が足りなくなっている。弱者の切り捨てね。ちょっと前にも書きましたが、「自己責任」という都合の良い言葉で、船から落ちたもの、落ちかけたものを冷笑し、時には突き落とす。
真面目に働いていれば所帯を持って子供を産んで育てて布団の上で死ねる、それくらいの給料や社会保障は手に入るのが「寛容」な社会です。フリーターになったのも「自己責任」、ホームレスになって野垂れ死にするのも「自己責任」って、それはいかがなものか。
そういった社会の風潮をまともに浴びるのが子供たちです。大人たちは年端もいかない子供たちにまで「自己責任」社会の一部である事を要求する。お父さんは「自己責任」でリストラされない為には毎日毎日残業です。お母さんも老人介護や子育てを「自己責任」でやらされるので、一人一人の子供にじっくり手をかけて育てるヒマがない。そうやって「自己責任」社会に否応なく巻き込まれた子供たちは、自分がどうやって育つのかを自分で全部選ばなければいけない。それで不登校や引きこもりや落ちこぼれになるのも、子供や親の「自己責任」。
寒いね。どう考えても寒いぜ。
そんな寒い社会に誰がした。あなたですよあなた。あなたちゃんと選挙行ってますか? 身近な「不寛容」をスルーしてませんか? そういうの積み重なった結果がこれですからね。「戦後民主主義」とか「ゆとり教育」とかに都合良く責任なすりつけてませんか?
だから私は、ホクレア号に学んで、世界平和、そして寛容な日本社会を目指そうと主張しているわけです。思い出してください。ホクレアを守る為に嵐の海に消えたエディ・アイカウについて、弟のクライドは「エディが我々に教えてくれているのは、他人の為に死ね*3という事じゃない。周りの人に優しくあれという事なんだ。」と言いました。
伝統文化や歴史を学ぶのは、既に何度も書いているように総合的な学習のテーマとして大きな可能性がありますし(例えばhttp://susumu.exblog.jp/1262764/)、教科としての「総合的な学習」は教科学力の多寡と切り離してデザインする事が出来るので、他人との競争、蹴落とし合いではない学びを実現出来るのです。助け合う事が結果的に自分自身にとっても得な選択肢であるという経験を積ませる事は、大切なことです。
間違えられると困るんですが、私が目指そうといっているのは「世界平和」と「寛容な日本社会」であり、その手段として伝統文化や歴史を学ぶというものがある。逆じゃありませんよ*4。
今、私たちの国でも伝統文化や国を愛する心を取り戻せという主張が盛り上がっています。私は伝統文化を学ぶ事はとても良い事だと思いますし、そのような学習の中で、日本列島とそれが生み出した文化への愛着は自然と生まれてくると想像します。
いや、そうじゃないんだ、人間は生まれた国も肌の色も性別も関係無い、みんな同じなんだという主張もある。ですが、実際には私たちは生まれる場所も親も性別も選べない。事故みたいにしてどこかで誰かから生まれてくるしかないし、その不条理な縁は一生私たちについて回ります。それはどうしようもない。理屈では生まれた国や親を捨てられるかもしれませんが、そうやって自分の生まれにくっついてきた不条理な縁を全部捨てた人が必ずしも幸せになれるのか、少々という以上に私は疑問視しています。
やはり、それぞれが色々な縁を背負って生きる中で、みんなが快適に暮らせる世界を作っていくしか無い。その為には、自分がどんな縁を背負っているか知っておいた方が良い。お互いに違うものを背負っている事を前提として、なんとか折り合える妥協点を見いださなければいけない。だから伝統文化や歴史を学ぶ事には意味がある。
目的ではなく、手段としての伝統文化、そして歴史です。ここがひっくり返ると、とたんに「不寛容」な社会が出現します。だから、それはダメ。絶対にダメよ。
*1 この「ナニナニ人」が必ずしも「日本人」とはなりません。例えば「沖縄人」「在日系日本人」「盲者」「ろう者」などなど。色々です。
*2 近隣諸国と罵り合いをするために「日本人」としてのアイデンティティを準備するのは無駄に温室効果ガスを出すだけなので、お付き合いするつもりはございません。あっちもこっちも暑苦しいったらありゃしない。
*3 昔、私たちの国では、若者たちに「他人の為に死ね」と教えて特攻隊に入れました。たかだか60年前の話ですぜ。
*4 異国のテロリストに拉致された同胞を「自己責任」と嘲笑したり、本気で嫌がっている人に国歌斉唱を強要するのは「寛容」ではなく「不寛容」ですから、私はそういう人々に全く共感していません。