世の中には沢山の社会問題があるが、大学で社会学を学ぶということは、少なくとも一つの社会問題に(卒業論文やゼミを通して)コミットし、それについての自分なりのソリューションを考えて発信するということと思う。
ただ、ここで問題になるのは、多くの実務家にとって大学教員の持ち出すソリューションはきれい事と絵空事扱いだという話。ソロバンもろくにはじいていなければ、利害が対立する複数のステークホルダーの間を歩き回って、落としどころを探るという工程も入っていないことがある。あるいは声の大きな一部のステークホルダーの代弁者にしかなっていない場合もある。
だから、例えば一線級の観光コンサルさんが「大学の観光学部で教えてることなんか現場では役に立ちません」「小学生が修学旅行の自由時間の予定組んでるのと同レベル」と断言しちゃったりする(実話)。
あるいは、そんな人的資源も資金も無い中等教育の現場に向かって、「これとあれとそれが足りないから、そういうことが出来る教員に全部入れ替えろ」とか吠えたりする。現場からは一顧だにされない理屈だ。そんな人材がどこにいる? そんなお金をどこから引っ張ってくる? 何も考えていない。誰か実務者が考えれば良いと学者は思っている。だから学者は実際に色々なところでバカにされているのだ。
必要なのは当たり障りの無いきれい事のソリューションを文書で出して終わりにすることではなく、現場を這いずり回って銃弾も数発浴びて、挫折もいっぱい味わわせて、世の中を本当に汗かいて変えようとしたらどれだけ大変なのか、その経験を若者たちにさせることなんじゃないかと思う。大学の先生がたには、そういう教育をやって欲しいと思う。そういう教育をしている大学に自分の息子を入れたいと思う。