解くべき問題を発見出来る人を育てるよりも、永遠へと続く謎の悪循環を目覚めさせてしまう奴のが、面白い人生になる

最近流行りのフレーズで、既存の問題の解き方に精通している人よりも、解くべき新しい問題を発見出来る人の方が云々というやつがあります。
安宅和人の言うイシュードリブン。解いた時のインパクトが大きく、なおかつ現在のリソースで解くまでの手順がほぼ読めるようなイシューを発見し、それを鍵として研究やビジネスを進める。という発想。
うむ確かに研究業績競争やドッグイヤービジネスでは、そのスキルを持っている人は有利だと同意します。
さて、最近流行りのフレーズその2。今の子供たちが将来就く職業のかなりの割合は、今は存在しない職業である。今存在する職業のかなりの割合は、ITやAIやロボット技術によって消滅する。
流行フレーズ1と2をくっつけて、「だから子供たちには問題の解き方より問題発見の方法を身につけさせると有利」というのが、最近の意識高い俗論と理解しています。
特に反論はありません。
ですが異見はあります。子供の人生を有利・不利という問題軸で考えるのが正しいのかどうか。私は不まじめなので、面白い・つまらないという問題軸で考えてしまいますが、それはそれでアリと認めていただきたい。
その、面白い人生を追求しやすいかどうかという観点を採用すると、安宅的イシュードリブンの発想は正直つまらないです。手堅く小さい勝利を積み上げて大差をつけるという考え方なので。
私の考えるところは逆なのです。解くべき問題ではなく、解けば解くだけ問題が育つような、一つのナゾを解決すると、解決されたナゾが仲間のナゾを5人連れてお礼参りに来るような、つまり謎が謎を呼ぶ悪循環が永遠に続くような、そんな問題を掘り起こしてしまえ。永遠へと続く果てしない問題の行列が地響きとともに姿を顕すような、そういう余計なことをやらかす悪い癖を身につけさせると、面白い。
そういう悪癖はどうしたら身につくのでしょうか?
その答えはまだはっきりとは言えないのですが、ゴールから逆算するイシュードリブンやデザイン思考とは別の何か・・・日常の中に一瞬だけ、流れ星やフライングフィッシュのように姿を表して消える永遠や無限の気配を敏感に感じ取り、その消えた方向を探知出来る感覚が大事なんじゃないかなとは思っています。
シンプルなフレーズに言い換えるならば
「それ、意味分かんないけど面白いから、取り敢えずゴーで。」
なのかな。