21st Century Voyaging Canoe Man

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 私の好きな漫画の一つに『ファントム無頼』という作品があります。原作は史村翔、作画は新谷かおる。

 いきなり脱線すると、かつて私が日本放送協会の集金員をしていた時、史村翔さんのお宅にも伺ったことがありますよ。場所は言えませんが。でも表札には武論尊とあったような(同じ人)。

 さて。この漫画の主人公は、航空自衛隊に勤務する凄腕の戦闘機パイロット、神田鉄雄です。彼はさすが漫画の主人公だけあって超自然的な奇跡を普通に起こす能力を持つ、要するに超人なのですが、戦闘機を降りるとタダの人。いや、タダの人以下という設定です。デスクワークにからっきし弱い。

 実は、この手のキャラの方、現代の航海カヌー乗りにも密かに多いらしいんですよ。航海カヌーに乗っていれば、あるいは海の上で何かをしている間は殆ど超人。人間の秘められた能力の一つの限界を自然に引き出しているような恐るべき船乗り。ウォーターマン。

 ところが陸に上がると良くてタダの人。タダの人以下の人もちらほら。特にデスクワークにからっきし弱い。それが証拠に例のポリネシア航海協会の公式ウェブサイトなんか、私がこのウェブログを開始した2004年10月以前から全く更新されていません。内部ではニューズレターだかMLだかが配信されているらしいですが。マーシャル諸島の「Waan Aeron in Majel」も似たようなものです。アオテアロアの「Ta Aurere Voyaging」は長い間サイトが落ちたままでした。まともに更新されているのはラモトレックの「Urupiy Voyager Project」とかタウマコの「Vaka Taumako Project」くらい。現在は「Ta Aurere Voyaging」もかなりしっかりした事務処理が行われているようですが。

 こういった状況をどう見るべきでしょうか。私個人の意見として言うならば、21世紀の航海カヌー乗りは神田鉄雄では駄目だと思います。駄目まで言うか。一応、言っとくさ。

 というのはですね、現代の航海カヌーにはたいがいお金の問題が避けて通れないからです。特に、航海カヌーに乗って行き来する以上のことを、航海カヌーを通してやろうとすると、どうしてもお金集めとお金の管理が必要になってくる。それがハワイみたいな、百万単位の人口を抱えた社会ならまだ良いですよ。ロコのポケットマネーやら企業の寄付金やらがそれなりに降ってくるでしょうから。

 しかし、何万人とか何千人とか、下手すると何百人みたいな規模の社会でそれをやろうとすると、外部の社会に資金援助を求めるということが絶対に必要になる。財団のような所に助成金を申請するとか、ウェブサイトを公開して寄付金を募るとか。ただお金が降ってくるのを待っているだけじゃ絶対に上手く行かない。ですが、助成金申請書類をきちんと作成するのは、これは大学卒あるいは高校卒業後の事務経験数年以上レベルの知識と能力が必要になってくる。お金の管理だってそうです。せっかく集まったお金も、いい加減な管理をしていたら次はもう集まりません。使途不明金とか出していちゃあかんのさ。端から端まできっちりと処理して会計報告、監査。それ絶対必要なのね。

 ここで「いや、そういう先進国の論理へのアンチテーゼとして航海カヌーはあるのだ」と指摘する方もおられるかもしれません。それは妥当な問題提起です。たしかに理屈の上ではアンチテーゼとして成立する。しかしですな。私、これは研究者として自分自身の研究領域でしつこく言っていることなのですが、「どんな立派な思想だって、それを維持するだけのカネが無ければ枯れてしまうのが今の世の中だ。まずは泥を啜ってでも、その思想を維持できるだけのカネを準備しろ。話はそれからだ。」

 私は究極的には「自然の都合に合わせる、自然には逆らわない」という、航海カヌー文化の根底にある思想は、現代社会に有用なものだと思います。思っています。ですが、現実問題として、現代社会に一矢報いる為のその一矢さえも、カネが無ければ手に入らないんだからね。

 私が何を言いたいのか。教育です。教育は大切だよということです。カネを集め、それを管理し、外部に向かって情報発信し、外部の協力者を獲得していく。これを自らの手で出来てこそ、21世紀の航海カヌー乗りとして万全でしょう。その為には、21世紀の航海カヌー乗りは学問が無ければいかん。せめて高校は出ておけ。出来れば大学には行っておけ。叶うことならば大学院を目指せ。

 全ての航海カヌー乗りが学問を身につける必要は無いでしょう。しかし、航海カヌーを維持する社会の中には、必ずそういう人間が継続的に、世代ごとに存在していなければいけない。「Urupiy Voyager Project」にしろ「Vaka Taumako Project」にしろ、現在は博士号まで持ったインテリがボランティア状態で協力してくれているからなんとかなっていますが、もしも彼らが居なくなったらどうなるのか? どうにもならんのですよ。

 こういった話は南の島だけに限った話ではありません。宮本常一さんの『忘れられた日本人』では、奈良の山奥の寒村の老人が、かつて明治維新の際に村の寄り合い地が勝手に公有地として巻き上げられた際、それを取り戻すのにどれだけ苦労したか、その為に中年になってから一から読み書きを憶えて学問を身につけていった話をする一章があります(「世間師たち」)。そんなもんです。現代社会というサバイバル・ゲームの基本ルールに、学問は既になっています。知らないじゃ済まされない。せめて一つのコミュニティに数人は、世間のことを良く知り学問を修めた「世間師」がいなければいかん。自分たちの健康と平和を守っていく為の基本なんです。それが。

 頑張って欲しいものです。

 そしてこれは多分、現代日本の社会に生きる子供たち自身にも言えることだと思うのです。学問は現代社会で生き抜く為の、最低限必要な道具だと。どうしても学校に行くのがイヤなら、自宅ででも良い。勉強せい。