今日は写真による「自己表現」がテーマ。
先週の課題だった「自分自身は写さずに可能な限り自分を語る写真」、そして今週の課題「自分度を可能な限り高くした写真」の2枚をそれぞれ別の学生に比較検討してもらい、講評を書いてもらうという作業をした後、3人ほど学生を使命して、比較検討の結果を簡単に報告してもらいました。
面白かったのは、どの事例でも撮影者である学生は今週の課題作品では充分に自己表現が出来たと考えているのに対し、周囲の学生は必ずしもそのような評価をしてはいなかったということ。
何故そうなるのか? ここでいきなり結論は出さずに、プロの作品を見ながらもう少し学生のアタマの中をかき回すことにします。
今日見せたのは欧米の大物ファッション写真家たちの作品。ヌードもいっぱい出てくるので、事前にメールで「ヌード写真も大量に出てくるが、問題はないか?」と告知しておきました(そうしないとセクハラ騒ぎになるかも・・・という文書が事務から配布されているのです)。
取り上げた写真家は、見せた順に並べるとこんな感じ。
Arthur Elgort
Helmut Newton
Pamela Hanson
Richard Avedon
Herb Ritts
Sebastian Faena
Jan Welters
Jean-Baptiste Mondino
Irving Penn
いずれもスポンサーがいてアート・ディレクターがいて・・・という注文仕事なのですが、どの写真家を見ても明確なスタイルがある。言い換えるならば強烈な自己表現を注文仕事の中で実現している。何故それが可能なのか? 今の自分にパメラ・ハンソンやモンディーノやファエナのようなエディトリアル企画のオファーが来たとしたらどうするのか(さすがに皆、実力不足だから辞退すると答えてましたが)?
学生たちの意見を総合すると、これらファッション写真家たちはまず高い技術があり、こう撮りたいという強い意志があると。そこが自分たちとは違う点だろうとのことでした。更に、そうした技術や意志から生み出される作風そのものにも価値があり、アート・ディレクターは彼らの作風を考慮した上で企画を立てて発注しているはずだとの指摘もありました。
では、彼らのそれぞれの作風はどうやって生み出されてきたのでしょうか? 最初に出てきたのは「写真家の中に撮りたいイメージがあって、それを追求していったら作風が確立した」というモデルです。でも、そのイメージはどうやって形成されたのか? 例えばパメラ・ハンソンはアーヴィン・ペンの熱心なファンでペンの作品のコレクションを持っているらしいぞという話をすると、「先行する写真家たちの作品を見て、いいとこ取りで自分の作風を作っていったのでは?」という、もう少し歴史性を意識した意見が出てきます。たしかにファエナの作品はヘルムート・ニュートン直系みたいな印象ありますしね。
だが少し待て。写真家が写真からだけインスピレーションを得ていると思うのは浅はかだぞということで、ボッティチェリやクラナッハ、ブロンズィーノ、ラファエロ、ティツィアーノなどのルネサンス絵画を見せたり、象徴主義のギュスターブ・モローやラファエル前派のウォーターハウスにミレイ、ウィーン分離派のクリムトなどを見せます。あら? エルゴートの作品には色調から何からウォーターハウスそっくりのシリーズがあるんじゃないですか? ヘルムート・ニュートンはヴェラスケスの直接引用みたいな作品がありますね。実はファッション写真の顧客層の中には、かつての西洋絵画の顧客層の社会的位置を引き継いだ連中も居るし、ファッション写真はそれだけ見ているより、西洋絵画の女性表現の様式史を知った上で見る方がわかりやすい・・・・というところで今日は時間切れでした。
取り敢えずセクハラとは言われずに済んだらしい。