『西の天蓋』、順調に更新が続いています。昨日から5章「濡れ衣」へと入りました。
脇道に入ったら思いがけず殺人事件に巻き込まれたイェビ=ジェミ。
よもや自分がこの手の小説を書くとは思っていませんでした。
ただし、この先を読んでいっていただくとわかりますが、一般的な推理小説とは違う展開になります。
その理由は簡単で、作中のアルソウム連合王国のような社会では殺人はありふれた事件であり、正義の観念も現代の日本や欧米諸国の社会で受け入れられているものとは、かなり異なるからです。
例えば、共同体(この場合は、村とか町内会のような、お互いの顔と名前があらかた一致するような地縁・血縁共同体をイメージしてください)の中でゴタゴタが起こらない、いつまでも続かないことを「正義」とするのか?
神様が聖典や啓示によって「こうしなさい」と命じた世の中のありように近づこうとすることが「正義」なのか?
部族社会の伝統的な価値観に従うことが「正義」なのか?
人類全体が本質的に、あるいは「考えるまでもなく当然にわかっているはず」の「正しいこと」がある、という思想が既に成立しているのか? それが成立しているとして、どれほど普及しているのか?
また、それらの「正義」を実現する手段はどのようなものなのか? 法律だけが「正義」の手段なのか、各自が自分の判断で自由に「正義」を追求して良いのか、両者の線引きは曖昧なのか?
現代の推理小説の始まりを19世紀前半のエドガー・アラン・ポーに求めるならば、それが成立したのは既に、神とか共同体ではなく、国民国家があり制定法があり、「人間ならば誰でも言われなくてもわかるはずのやっちゃだめなことは、有るよね」という考え方もかなり広まっている社会です。
また、シャーロック・ホームズのシリーズを読むとわかりますが、自然科学や社会科学もかなり発達している段階なので、登場人物はそれらの概念や考え方も活用して事件に挑みます。一方でシャーロック・ホームズは、法律よりも自分たちの良心を優先させて、真犯人を逃しちゃったりもしています。しかも、彼らはその行為に対してまったく葛藤をしていません。あれは、アーサー・コナン・ドイルがホームズやワトソンを法律を軽視するキャラとして描いたからではなく、当時のイギリス社会全体がそれを正義の実現の一つのあり方として受け入れていたと見た方が良さそうです。
では、アルソウム連合王国では何が正義とされていて、その実現の手段はどんなものが認められているのか? この枠組が、キャラの行動限界を決めます。
『兵站貴族』で主人公が奴隷取引の問題にいかに関わったのか。彼は法学徒であり官僚ですから、自分の知っている法律を駆使して戦っていったわけですが、落とし所は実は幾つもありました。その中で彼は、何となく自分が嫌だなと思う落とし所を回避して、あそこに持っていったのです。
今回も同じように、関係者がそれぞれ落とし所を探りながら進んで行きます。事実や真犯人は明らかにならないかもしれません。何故ならば、それは彼らの正義にはあまり重要ではないからです。