浜田雅功氏の黒塗りの芸は差別表現とは言いづらい理由。長文。

バカも休み休み言え、で終わったかと思っていた、浜田雅功氏がアクスル・フォーリーの仮装をしているのは黒人差別だという主張。


ハフポストジャパン経由のヤフージャパンニュースで再度バズっているみたいです。


経緯は以下のようなものです。


・日本の著名コメディアンである浜田雅功氏が、地上波の番組で、かつてエディ・マーフィー氏が演じた架空の刑事、アクスル・フォーリーの仮装をした。


・これを見た横浜在住のアフリカ系アメリカ人ライターが、黒人差別だと主張。今後、肌が黒くない人物が肌を黒く塗って黒人の仮装をすることは、控えられるべきだとの論陣を張る。


さて、これは果たして黒人差別なのか。

肌が黒くない人物は肌を黒く塗ってはならないのか。


まずは差別の一般的な定義を確認しましょう。


" prejudiced or prejudicial outlook, action, or treatment"


不公平なあるいは偏見のある見解、行動、扱い。


(メリアムウェブスター辞典におけるdiscliminationの説明)


不公平や偏見が正されずにまかり通るということは、そこには権力の非対称性が存在するということです。すなわち強い者から弱い者に対しての不利の強要です。


では浜田雅功氏とアクスル・フォーリーの間に権力の非対称性はあるのか。


アクスル・フォーリーは架空の人物です。アラゴルンやレイア姫やクロトワと同じようなものです。架空の人物ですからそもそも権力を持ちません。


ではアクスル・フォーリーを演じたエディ・マーフィ氏と浜田雅功氏の間ではどうでしょうか。むしろエディ・マーフィ氏の方が浜田氏より強い権力をお持ちではないかと思います。


少なくともこの関係性の中では差別は発生しません。


黒人の仮装が差別的表現になるためには、その表現内容が黒人一般について不利になる、つまりネガティブな表象となっており、なおかつ表象行為を行う主体が黒人一般に対して優位な権力を持っていて、反論や批判を封じることが出来るという状況が必要です。


映画「ティファニーで朝食を」に登場する架空の人物ユニオシは日本人を事実と異なる形でネガティブに表象しているので、日本人がマイノリティである場所では明らかに差別表現。「蝶々夫人」に出てくる日本人女性キャラクター蝶々夫人も同様。しかし日本では日本人がマジョリティなので、強力な反論や批判を行うことが出来る。そして放送や上演を止めろという運動は(あるのかもしれないけれど)見当たらない。


件のライター氏が引き合いに出した、近代アメリカ合衆国におけるミンストレル・ショーはまさにこの、権力の非対称と事実と異なるネガティブ表現という状況を満たしており、現代では許されない表現と言えましょう。


ですが、当時のミンストレル・ショーに構成要素の一部が似ているからといって、それらが全てミンストレル・ショーと同等の差別的表現と考えることは論理的には成り立ちません。


昔、ギブソンES335を愛用する男に彼女を取られたからといって、全てのES335ユーザーの男性は許せないと考える自由はあります。が、その感情や主張を市民社会は共有してはなりません。


社会から追放すべきは差別と差別表現であり、それは論理的かつ客観的に差別と判定される必要があります。俺が差別と感じたんだから差別だ、では、市民は何が差別であるのかを適切に学習出来ません。


浜田雅功氏の芸はミンストレル・ショーではないと注意喚起し、それが理解出来ないのであれば致し方ないので、彼個人の言論の自由の範囲に限り認める。それが落としどころと考えます。


黒人ではない人物が肌を黒く塗る表現についても、権力の非対称性、表象内容に事実と異なるネガティブさがあるかによって個別に判断すべきことと思います。