昨晩、大江健三郎とバウハウスの話のときにふと考えたことを、忘れないうちにシェアしておきます。
たしか、バウハウス的な、機能だけを追求した素材と造形の空間に人を置くと、その人は精神を病むけれども、その空間に装飾品を入れると、その現象が止まるというお話でしたね。
社会学の概念では、宗教社会学におけるカオスとコスモスという対概念に近いように思います。
コスモスとは秩序です。整然とした状態です。
カオスは混沌です。
人は自らの存在する世界が秩序によって支配されていることを望み、理解出来ないものをカオス/混沌として恐れ、これをコスモスに変換しようとする。その時に超越的存在(神)が呼び出される、という考え方があります。ピーター・バーガーの『聖なる天蓋』という本で論じられた有名な理論です。
ところが、バウハウスのような「機能を形にした」デザインを突き詰めると、人はそれを非人間的と批判するようにもなります。
これは何故なのか?
昨日お話しされていたように、数学は全てがロジックです。そこには人間の事情や思いが入り込む余地が無い。だからこそ神に近い領域と言えます。
それと同じように、全てを機能的な「正しさ」を尺度に作ってしまうと、それは神に近づきます。
神の領域とは圧倒的・絶対的な正しさの世界であり、人はそれに抗うすべを持ち得ません。
正しすぎる空間は、人ではなく神の空間であり、そこでは人は正しさに抗い得ないが故に、人の不在を感じます。
人はその中に(ベルクソンが言うような)相矛盾するものを幾つも持っています。矛盾するものが同時に存在しているのが人間の中身であり、おそらくは現生人類だけがそうした「矛盾を保持出来る」という特質を持っています。
ですから、現生人類は先史時代から、道具に正しさだけでなく、装飾のような「余計なもの」を付け加えずにおられないのだと思います。
何故ならば、そこにこそ「矛盾を許容する場」としての「自由」、すなわち「人間の自由」が存在可能だからです。
正しさと自由は、100%シンクロはしえない。おそらく「自由」はその定義・本質の中に「正しくなさ」を含み持っているのでしょう。
この「正しくなさ」あるいは「人間の自由」を、デザインの中に(デザインのプロセスの中に、そしてデザインされたものの中に)いかにして配置するか、これは、まだデザイン論の中でそれほど問題化されていないような気がします。
(そういう意味でHELLVETICAというのは面白い試みでした)