私が思い出したのは、古代ギリシアです。
古代ギリシアはご存じのように奴隷制の社会でした。ここでは奴隷が生産活動を担い、市民は戦争や政治、それと文化活動に専念していたんですね。そこでは市民が学ぶべき教養を「自由学科」と呼んでいました。英語で言うとリベラル・アーツ。現在の大学教育でも「一般教養」という名でこの概念は残っていますが、古代ギリシアでは詩や音楽、演劇、文章の書き方、議論のしかたなどを指しました。こういうものは直接生産活動や戦争、政治には関係無いですが、市民たるもの身につけておくべき教養と考えられていたんですね。今の学問の分け方で言えば、むしろ人文学というのが正しいかもしれません。政治学や法学、経済学など、生産活動や政治、戦争に直接役立つ文系の学問は社会科学と呼ばれます。
現在でも人文学を「役に立たないから止めてしまえ」「趣味でやれ」と主張する人(特に自然科学系や社会科学系の大学院を出た失業者の皆様)が少なくないですが、人文学の真骨頂はこの「実際的ではない」というところにある。そもそもが奴隷に仕事をまかせて生活していた貴族の学問ですからね。社会が十分な生産力を保持していて、全ての人間が直接生産活動に従事しなくても良い社会にしか成立しない。
それじゃあ人文学的なものは、直接生産には関わらないという点で、今流行語になっている「ニート」「引きこもり」のような日陰者の一種なのでしょうか?
私はそうは思わない。これに関して私が思い浮かべるのは、「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」、いわゆる「世界遺産条約」の条文です。私たち地球人は、これまでの地球と人類の歴史には数々の素晴らしい到達点があると思っていて、そういうものを保護して残していこうとしていますが、そのうち人類の創り出したもの・・・文化遺産の登録基準とは、次のようなものです。
世界遺産の登録基準<文化遺産>
i. 人間の創造的才能を表す傑作である。
ii. ある期間、あるいは世界のある文化圏において、建築物、技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展において人類の価値の重要な分流を示していること。
iii. 現存する、あるいはすでに消滅してしまった文化的伝統や文明に関する独特な、あるいは稀な証拠を示していること。
iv. 人類の歴史の重要な段階を物語る建築様式、あるいは建築的または技術的な集合体、あるいは景観に関する優れた見本であること。
v. ある文化(または複数の文化)を特徴づけるような人類の伝統的集落や土地利用の優れた例であること。特に抗しきれない歴史の流れによって存続が危うくなっている場合。
vi. 顕著で普遍的な価値をもつ出来事、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または明白な関連があること(ただし、きわめて例外的な場合で、かつ他の基準と関連している場合のみ適応)。
度々私が言及する自動車評論家の福野礼一郎さんは、この基準を見るなり「お金の話が出てこないのが素晴らしい。」と指摘しました。たしかにこの基準において「今現在、役に立つこと」「高額で売却できること」などは念頭に置かれていません。世界遺産とは、それ自体は最新鋭のモノや施設に比べればもはや機能的には太刀打ち出来ないけれども、しかし人類の歴史や過去の思考を知る上ではかけがえのない価値を持っているものなんですね。地球人は、そういうものにもちゃんとそれなりの価値を認めているわけです。それなりの、ですけどね(高い価値を、だったら世界遺産条約なんか要らなかったでしょう)。人文学も世界遺産と同じ。歴史学、文学、人類学、社会学など、いずれも「人間って何?」という、いわば人類のアイデンティティ探求の学問です。
私たちは、とりあえず社会が必要とするものを生産出来ているならば、余った富を使って、「人文学」をやってきた、言い換えればアイデンティティを探求してきたんですよ。
「俺たちは何者なのか?」
これは、ご存じのように、ポリネシア航海協会の方々が、ホクレア号の意義について語る時に必ずおっしゃる一言です。
もちろん「俺たちは何者なのか?」という問いは、生き物には必須というわけじゃありません。プラナリアはそんなこと考えていないから、縦割りすると一匹で二匹になれるんです(本当かよ!)。ですが、人間の場合は違う。人間が人間になったということと、「俺たちは何者なのか?」を問わざるを得なくなったことは表裏一体だと思います。
先日、『ネアンデルタール人の正体』という本
(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022598697)
を読んだのですが、進化の袋小路に入って滅んでしまったネアンデルタール人と、現生人類の一種であるクロマニヨン人は、ある時期、ヨーロッパで共存していたのだそうです。それで、ネアンデルタール人の遺跡からも、クロマニヨン人の真似をして作ったような抽象的装飾が発見される。つまり絵のようなものですが、絵を描けるということは、例えば目の前にいる実物の牛について、それを殺して食べるという動物的反応以外に、その牛を記号化して扱うことが出来るということです。記号化された牛は、「10年前にあの山のあの辺りにいた牛」というようにして、「いまここ」以外の存在としても取り扱うことが出来る。象徴操作とかシンボル操作能力と呼ばれるものです。
ところが、丹念に見ていくと、ネアンデルタール人とクロマニヨン人では、この象徴操作能力に格段の違いがあるんだそうです。幼児と中学生くらい違う。そして、結果的に見て生き延びてきたのは、象徴操作能力が高かった人類、つまり私たちです。
言い換えれば、私たちホモ・サピエンス・サピエンスは象徴操作能力の高さでサバイバルしてきたということ。ところが、この象徴操作能力は、自分自身をも自分の体から引き離して、「俺」「私」「おいどん」「それがし」のように、象徴化してしまいます。ですが、そうやって象徴化されたものは、自分自身の肉体ではありません。これは矛盾です。自分自身の肉体、自分の空間的・物理的な居場所ではない、象徴の世界に「俺」という、あたかも自分のようなものが生まれてしまった。そして問いが生まれます。
「俺たちは何者なのか?」
おわかりでしょうか。私たちは象徴操作能力の高さでサバイバルしてきた以上、この問いからは逃れられない。役に立つ立たない以前に、これを問わずにいられない。特に、サバイバルすることそのものが楽になって余計な時間が出来てしまうと、それは顕著になりますわね。
私の考えはこうです。海の人文は、既に日本において発展する為の条件を備えています。ただ、海という領域があることを忘れているだけなんです。だから、海という領域へのアクセシビリティを良くしていくことが、「海の人文」を豊かにする道なんだと思います。
となると、まずサーファーは縄張り争いを止めましょうってこと、なのかな?