何がアンフェアなのか

 一昨日の演習ではグローバリゼーション論に関するテキストを読みました。ゲストスピーカーには拓海広志さん。拓海さんと言えば酔っぱらいのご機嫌(で変)なおじさんというイメージですが、その中身は元商社マンで国際物流のプロ中のプロ。某超大手グローバル企業でのお仕事の経験もあります。つまりグローバリゼーションに乗っている側、グローバリゼーションを通して収益を上げる側の人間。

 高校を出て半年一年という若者たちが、海千山千のグローバルなビジネスマンにどんな論戦を挑んだのか。

 ゼミ発表をしてくれたKくんはグローバリゼーションを基本的には肯定しつつも、グローバル企業がグローバリゼーションに乗じて暴利を貪っているのではないかと指摘して、フェアトレードの推進によるグローバル企業の弊害の緩和を訴えました。

 フェアトレードについては、以前にも何人かの学生が議論の中で言及したことがあります。皆、どこかの講義で出てきたから憶えたのではなく(実はこの演習の直後の時限に開講されている佐野麻由子先生の「国際社会論」で、この日からフェアトレードを扱うことになっていたのですが)、日常生活の中でフェアトレードの存在を知る機会があったのだとか。フェアトレードかなり浸透してきています。

 グローバル企業のビジネスマンの目の前でグローバル企業の弊害を批判するKくんのファイティングスピリットにまずはコーヒーで乾杯です。とはいえ、まだフェアトレードについてよく知らない学生も多かったので、私からコーヒーを例にしてフェアトレードの概念を説明。要は「コーヒー産業は莫大な利益を上げているのに、生産者は貧困にあえいでいる。だから生産者が適正な利益を上げられるような価格でコーヒーを買おうじゃないか運動」ですね(ちなみにこの日の佐野先生の講義では映画「美味しいコーヒーの真実」を見たのだとか)。

 とそこまで解説したところで、拓海さんから矢継ぎ早に切り返しの質問が飛び出します。

「これをフェアトレードと称するということは、これ以外のコーヒーの商取引はアンフェアだということになる。では、具体的にはどの部分がアンフェアなの?」

 はたと考え込む学生たち。たしかに言われてみればそうなんです。安易にフェアトレードなんて言っていますが、ではそれ以外のコーヒー豆の売買は不公平なんでしょうか?

「流通業者や小売業者の利益と、生産者の利益の格差が大きすぎるのでは?」
「流通業者や小売業者や消費者の生活水準と、生産者の生活水準の格差も大きいのでは?」

 なるほど。それが不公平なわけね。それならと私が意地悪な質問。

「でも、生産者には本来「売らない自由」もあるわけでしょ。何でそんな安値で売っちゃうの?」

 学生たちは色々な説明を試みますが、どうにも上手く説明出来ないようです。頃合いを見て私から、プランテーション農業の弱点(ある作物に特化してしまうと自分が作った農産物による自給自足が出来なくなるため、生きるためにはどんな安値でも作物を売らざるを得なくなる)を説明。

 更に拓海さんからはまた別の難問が浴びせかけられます。

「このフェアトレードの構図を見ると、生産者の取り分を増やすための価格増分をもっぱら負担しているのは消費者だよね。流通や小売業者は何も負担していない。それってフェアなことなの?」

「このフェアトレードの概念を徹底的に単純化してみると、生産者がどんな最低な品質の商品を作っても、消費者は生産者が生きていかれるだけの価格で買えって話になるよね。それってフェアなことなの?」

「何を作っても消費者がそれなりの価格で買い上げてくれるってなったら、生産者はそれで幸せなの?」

「実はコーヒー生産国でコーヒー農場を経営しているのは現地の人間が多いし、そういう層はきちんと儲けている。とすると、単純に生産者というくくりで議論することは適切なの?」

 ぐはあ。これは厳しい。でも拓海さんの質問はいずれも本質を突いています。努力しなくても適当に何か作っていれば義侠心溢れる先進国の消費者がそれなりのお金を払って買い上げてくれるというのは、実は生産者を乞食の立場に固定してしまうことでもあります。アメリカ合衆国は自分のテリトリー内の先住民コミュニティの多くにドバドバと補助金を入れて「働かなくても食える」状態を作ってきましたが、それで何が起こったのかといえば絶望の蔓延です。

 フェアトレードには片八百長じみたところがありますし、そこに限界がある。

 ここで一人の学生が面白い発言をしました。

「自分がフェアトレードを良いなと思ったのは、フェアトレードによって得られた資金を、生産者の子供たちの教育に使っているところなんです。子供たちに教育を提供することで、次の世代では貧困の状況を変えていけるのではないかと思って・・・。」

 そう。大事なのはそこなんですよ。現ナマの義援金(フェアトレードは要は義援金付きコーヒーみたいなもんですから)をいくら投下しても、それを生活費に回してしまったら状況は永遠に変わらないんです。コーヒー生産の末端に居て貧困にあえいでいる方々は、つまり自由主義経済の勝負で完敗して身ぐるみ剥がされた方々。でも、一度負けたら永遠に負け続ける状況というのはアンフェアです。本当のアンフェアはそこにある。親の世代は確かに負けた。でも、その子供たちまで負けを背負って生きていくのはアンフェアだと私は思います。

 フェアトレードというものに意味があるとしたら、それは次世代にもう一度戦うチャンスを提供するという点にある。もっと良いものを作り、自分たちのコントロールが効くルートで流通させ、グローバル企業の商品に戦いを挑む。そのための義援金というのなら、それは意味がある。

 拓海さんからも衝撃的な発言が。

「私の会社はアフリカの貧困層が自立するための活動援助に、年間で何十億円というお金を使ってますよ。グローバル企業と呼ばれる会社はどこだってそれくらいのお金は出してます。世界各国で商売するためには、それぞれの土地で好かれないと話にならないですからね。」

 残念ながら演習はここで時間切れになりましたが、学生たちには色々なことを考えさせられた回になったと思います。拓海さん、ありがとうございました。