書評:斉藤直子『仮想の騎士』新潮社

斉藤直子『仮想の騎士』新潮社、2000年

第12回・日本ファンタジーノベル大賞の優秀賞受賞作です。この年は大賞は該当なしなので、この年の首席ですね。

著者の斉藤直子さんは1966年生まれで立教大学文学部心理学科卒。はい、昔は文学部心理学科というのがあったんです。9号館に。2006年に現代心理学部になって文学部から独立して新座キャンパスに移ってしまいましたけどもね。私が受験した頃は心理学科と英米文学科が文学部では一番難易度高かったな。

この裏あたりが心理学科の建物でした

ちなみに日本ファンタジーノベル大賞では立教卒の先輩方、結構活躍しておられます。斉藤さんの他

久保寺健彦さん(法学部卒・第19回優秀賞)
井村恭一さん(文学部中退・第9回大賞)

さて、話を戻して『仮想の騎士』です。

18世紀半ば、外交革命(長年の宿敵だったハプスブルク家とブルボン家が、新興勢力であるプロイセンに対抗するために同盟を結んだ事件)から七年戦争にかけてのフランスとロシアを舞台に、数々の歴史上の有名人が入り乱れてドタバタ騒ぎを繰り広げるという筋立て。主人公はフランスの外交官シュヴァリエ・デオンで、これに絡むのが

  • エリザヴェータ(ロシア皇帝)
  • ジャコモ・カサノヴァ
  • ポンパドゥール夫人
  • ルイ15世
  • サンジェルマン伯爵

他にも当時のロシア宮廷とフランス宮廷の有名人が山ほど出てくるのですが、多すぎるので割愛します。

メインのプロットは、史実のデオンが何らかの理由で(性同一性障害なのかそれ以外の事情なのかは不明)、女装したり自身を女性だと主張したりしていたことに着目し、デオンは同時代の有名な錬金術師であったサンジェルマン伯爵による両性具有体製造の人体実験の素材にされていたというものです。デオン自身、1756年にロシアに密使として向かった際には女性に化けていたと手記で主張しているので、そこからヒントを得たのかと思います。

このプロット自体はなかなか面白いと思いますが、作中ではデオンの性的アイデンティティは完全に男性なんです。女装はやむなくやらざるを得なかったという設定になっている。そうなると、クライマックスでサンジェルマン伯爵に拉致られたデオンが実験室で別の少女と悪魔合成されそうになるシーンとの繋がりが苦しくなると思いますし、実際に苦しい。サンジェルマン伯爵に狙われる必然性が薄いですからね。少女と悪魔合成して完全体にするというコンセプトだったら、少女と対になる素材(=主人公)は、少年であるか、あるいは徹底的にマッチョで女性的な部分が一切無い成人男性でないと、記号論的に綺麗なシンメトリーにならないですから。たまたま行きがかりで女装しただけのあんちゃんを狙う必然性が無い。あるいはデオンを性同一性障害や両性具有という設定にしておいて、つまり一人の中に女性と男性の両要素を入れておくか。しかしプロットでは両性具有化=完全体化なので、最初から両性具有という設定は使えない。

もしもデオンを、性同一性障害の人物として描いていれば、クライマックスでのサンジェルマン伯爵とデオンの対決を、デオンの性的アイデンティティの葛藤を巡る対話として描けたし、その方が作品の読み応えや深みはグッと増したでしょう。ここをクライマックスとして設計していくと、物語の発端からクライマックスに至る流れは全く別のものになります。また、デオンが後に自分は女であると主張したという史実にも上手に接続して、余韻のある終わらせ方が作れたはず。

しかしながら、斉藤さんはこの時代のあれやこれやの有名人や奇人変人を、とにかく仕入れた素材は全部使う勢いで片っ端からぶち込んでしまったので、このクライマックスシーンも、マッド・サイエンティストに改造されそうになるお兄さん危機一髪のところに頭のオカシイ王様と陰謀家のポンパドゥール夫人と風来坊カサノヴァが乱入して、突然カードゲームで勝負を付ける話になるというドタバタ展開になってしまった。もったいない。

審査員の講評も、なかなか手厳しいものですが、私は妥当だと思います。

「仮想の騎士」は今回の最高得点である。十八世紀のピカレスク歴史小説だが、そういったタイプにありがちな重さを吹きとばし、これまたカサノヴァに関西弁を使わせるなど、思い切った軽さが気に入った。テーマも前年度の大賞受賞作が扱っていた両性具有に注目し、錬金術思想から発して両性具有に永遠の生命を獲得する鍵をもとめるなど、仕掛けもおもしろかった。しかし、次の二点において疑問があり、大賞には推せなかった。現在の視点に立っての歴史評価をしすぎること、結末が弱いこと。とくに結末は、カリオストロにまでつなげるとストーリーがふくらみすぎ、収拾がつかなくなる。もっと手前で切り上げるべきだった。(荒俣宏)

主人公の両性具有性、つまり一人二役というおもしろい装置がもっとうまく使われていたら、掛け値なしの傑作になっていただろう。そこが惜しかった。(井上ひさし)

話のテンポがはやく、登場人物も大勢でなんだか知らないが歴史の有名ブランドのなかでせわしなくいろんなことがおきているんだなあ、とびっくりしているうちに読みおえてしまった。(椎名誠)

「仮想の騎士」はフランス革命を目前に控えたフランスを舞台に、美男の剣士やカサノヴァ、錬金術師たちが動き回って、忙しいことこの上ない。イタリア訛りのフランス語を関西弁で表現するくだりは、まさに爆笑ものである。候補作四本の中ではかなり達者な部類に入るのだが、途中から話のテンポが早くなり過ぎるのが気になった。(鈴木光司)

ただ、わたしとしては昨年度の重厚な大賞作品とおなじ両性具有の問題に関わるだけに、いま一息乗りきれず、博識のひけらかしといった印象を拭いきれなかった。この点はもしかして荒俣氏のいわれたように、現代の視点からする批評が多々まじることに基づくのかもしれないが。(矢川澄子)

思い切ってカサノヴァもルイ15世やポンパドゥール夫人も出さないようにして、デオンとサンジェルマン伯爵の関係性の経時的変化だけにストーリーを絞り、余計な連中を全削除した字数でサンジェルマン伯爵の書き込みを増やしていたら、大賞取れたんじゃないかなあ。カサノヴァなんて最初と最後にしか出てこないし、全く要らないよ。少女が後にカリオストロ伯爵の嫁になったとかいう設定も要らないでしょ。

それ以外の部分でも色々と粗さが目立ちました。例えば、物語の時点(1756-57年)には無かった概念や思想や言葉が地の文に山ほど出てきます。テレビとか素粒子論とか。これは物語世界への没入感を大きく下げるので、止めた方が良かった。

また、英語を片仮名に移した語彙を多用しているのも同じように没入感を下げてしまいますね。バックステップとかリズミカルとか。

人名についても、カサノヴァを「ジャック」とフランス名で表記しているのなら(イタリア語ならジャコモ)、スコットランド人ダグラス・マッケンジーではなく、スコットランドから亡命してきたアレクサンデル・ピエール・ド・マケンジー・ダグラスと書くべきでしたし。

登場人物のその後を細かく挿入するのは司馬遼太郎や田中芳樹が得意とした手法ですが、これも物語の本筋が太くないと、逆効果です。物語の筋を追いづらくなってしまう。これも止めた方が良かった。

クライマックスの対決でサンジェルマン伯爵が使った小道具である、柄に仕込まれたピストルも、技術発達史を考えると150年ほど早いと思います。当時の工学ではそれは作れなかったでしょうと。雷管が付いた薬莢式のピストルならコイルばねでストライカーを前進させて雷管を叩いて取り敢えず発射は出来ますが(剣として使用している間、装填された状態の銃口が常に自分の方を向いているという時点で、それでもアタマのおかしい設計ですけども。暴発したらどうするのよ)、この時代には火薬と弾丸を別々に装填して、火縄か火打ち石で点火ですからね。

それから、最後に主人公たちがプレーするカードゲーム「コメット」のルールが、実際のものと作中のものとかなり違うようです。リバースとかスート指定ルールは実際には無いみたいですね。

イタリア語を関西弁にして、中心であるフランス語に対する周縁的な空間(世界システム論で言うところの準周縁)イタリアを表現するアイデアはアリだったかもしれませんが、だったらデオンがロシアに行った時にロシア人のしゃべるロシア語をフランス語と同じように東京弁で表現したり、ロシア人の喋るフランス語を文語調表現にしたりしているのはいったいどういうルールに基づいているんだろうと。舞台がフランス限定であれば成り立った、中心/周縁を東京弁/方言で表現するシステムも、フランスとロシアが半々で物語を進行させる場合には破綻は見えていたと思います。止めといた方が良かった。

そんなわけで、褒めるところのない小説でしたが、斉藤さんにはまた長編に挑戦して欲しいな。