全ての学者が英語で論文を書く日が来たとして、だ。

 ようやく最近になって、直接に講義に関係する以外の本も読む余裕が出来てきたので、図書館に行ってパッと手に取れる位置にあった(さすがに息子を連れてじっくりと図書館の本を品定めするのは無理。特に2歳くらいの幼児を連れた保護者を徹底排除している稲城市立中央図書館では。)水村美苗の『日本語が亡びる時』を借りてきて、なかなか面白く読み終えました。

 この本の論旨を簡単にまとめると、

・言語には「普遍語」「国語」「現地語」の3つの段階がある。どの言語がどれに分類されるかは時代や地域によって異なる。古代の普遍語はギリシア語やラテン語や漢文。現在は英語。
・「国語」は、普遍語以外の言語の中で、ある特定の領域を面的に支配し、その領域内の国民それぞれが「自分はどの国の民か」を理解している国家(国民国家)の内部の共通の書き言葉になったもの。
・何故「書き言葉」が重要かというと、「普遍語」によって書かれた文書に蓄積されている人類の知的資産を翻訳して、自国の国民が広くアクセス可能なものに出来るから。
・日本語は明治維新の直後の数十年間で集中的に「国語」として整備された。これはそれ以前の1000年以上に渡る日本語の「書き言葉」としての伝統や、江戸時代の識字率の高さ(世界最高レベル)、江戸時代に書籍の市場が成立していたことなど、多くの偶然を得てのものだった。
・また、明治維新後の西洋文化の圧倒的な圧力に抗する為、同時代の日本列島の最高レベルの知性のほぼ総てが「国語」の完成と深化に投入され、彼らが学問や翻訳の傍ら文学にも手を出した結果、日本語世界は明治維新からの100年間で歴史上空前の高みに達した。でも、現在の日本では、最高の知性が競って文学に取り組むということはあり得ない。
・一方、IT技術の進化とアメリカの超々大国化により、世界の学問の言葉は急速に「英語」に一極集中化を始めている。これは同時代の世界中の最高の知性が全てその知的活動の為の言葉を英語に一本化しつつあるということ。
・最悪のシナリオとして、日本の最高の知性が知的活動を日本語で行わなくなる時代も来るかもしれない。そうなると、日本語は「国語」から「現地語」に転落しないとも限らない。

 翻訳家としては、外国語から日本語への翻訳という職能がいかに近現代の日本語世界に寄与したかを論じている部分など非常に興味深く読みましたし、ここしばらくの学校教育における英語教育の低年齢化のばかばかしさを感じ続けていた者として、日本語教育の重要性という問題意識の点で、著者と基本的には同じ陣営に属するとも思います。

 では、日本の「最高の知性」は、もうすぐ日本語で学問をすることを止めてしまうのでしょうか? う~ん、何とも言えないですが、まあ確かに同じ内容の論文なら日本語より英語で書いた方が、大学教員の職を得るには有利でしょうね今も。世界的に見て「ここが最先端」というものがわかりやすい分野(自然科学と主流派経済学)は既に英語論文がデフォルトになってますし、それはそういう目的に最適化されていて良いんじゃないかとは思います。頑張ってみんなで最先端を前に進めてくださいと。
 
 それ以外の分野はどうかな。文学部でやる学問の中でも作家研究とか作品研究とかは、みんなで英語でやるのも悪くないかもしれません。頑張れ。バッハ研究とかシェークスピア研究とかね。ケベード研究とかカルデロン・デ・ラ・バルカ研究はどうなんだろう。多分、最先端はスペイン語の論文で発表されてると思いますが・・・・。

 私が最も読んで興奮を覚える分野の一つ、日本史はどうでしょう? これからも日本語がメインでしょうねえ。だって市場的に見て日本語話者が圧倒的に多いもんな。社会学はどうなのかな。理論社会学は英語に一本化しても良いかもしれませんね。個々のフィールドに関する論文はどうかな。理想的なのは、そのフィールドで話されている言語と同じ言語で書くこと。それが一番深いとこまで記述出来るし、調査対象になった人たちが読めない言葉で書くってのは道義的にもちょっと後ろ暗いよね。

 まあ他にも考えていけば色々あるんですが、私が思うに「俺が世界で一番アタマが良いんだぜ」ということを他人に認めさせたいタイプの研究者は、英語で論文や本を書くのがよろしいかと思います。研究者ミシュランこれからは英語で書いたものだけを(笑)対象にランキング作られますから。研究者ミシュランで上から何番目なんてことをアイデンティティの核心にしたい研究者は英語頑張れ。いや実際、研究者の半分くらいは「全世界研究者でかちん競争」(俺の●●が世界一でかいんだぜ競争)でランキング上げていくことを生き甲斐にしてる感じしますからね。

 「最高の知性」というのが「最高に競争に強い知性」ということなら、そういう人たちの知的活動はもう英語の読み書きに特化していくことでしょう。でも安心してね。「最良の知性」は日本語を捨てません。日本語を離れられません。日本列島に生まれる「最良の知性」は、これから更に日本語の表現を深化させていきますよ。

 「最高の知性」と「最良の知性」何が違うか。「最高の知性」は要は競争に最高に強い知性のことです。著者も書いていましたが、科挙にうかるとか東京帝大に入るとかアイビーリーグに入るとかその系統。競争に滅法強い。小さい時から神童で学部3年次くらいで頭角を現し、修士課程、博士課程を最短距離で駆け抜けて一流大学に三顧の礼で迎えられ、トントン拍子で教授になる人材。

 じゃ「最良の知性」は? これは私の定義ですが、自分の持って生まれた高い能力を自覚し、それを生かして社会に貢献することをひたすら追求するタイプの知性のこと。真善美で言えば真ではなく善の道を行く知性。例えば宮沢賢治とかね。

 「最高」と「最良」の違いは、知性がどっちを向いているかにあります。普遍か、個別か。英語で書くということは、知識をuniversalizeするということです。世界の誰もがアクセス出来る状態に置くということ。これはとても大事なことです。

 でもさあ。私、トヨタ関係の産業翻訳の仕事もしてたんではっきり言いますけど、エーゴだけじゃ駄目なのよ。あの世界最高品質を誇るトヨタ車はエーゴで作ってないの。日本語。仕様書は日本語で書きおこしてあるもん。それに、日本各地にある、「そこでしか作れない超絶品質の工業製品を作る中小企業」の親方さんたちはエーゴなんか読まないよ。別に日本に限らないんだけども、神の手と見紛う奇跡のモノづくりをする親方さんは、英語圏の人を除けばまず確実に、エーゴを自在に駆使するユニバーサルな人材じゃない。地元の言葉でしかコミュニケートできない。モノづくりの神は普遍語なんか読まないのさ(笑)

 ほんじゃどうするのか。localizationですよ。人類みんな共有の英知を、個々の場に最適化してやる必要がある。エーゴから現地語へ。モノづくりだけじゃないです。街づくりもそう。人づくりもそうだね。森づくりもそうでしょう。ローカルの人しか知らない先住民の叡智を無視して地域を創ることなんて、できねっつーの。

 一般化された理論を、地元の事情に合わせてあっちを削り、こっちを足して「使える道具」にする知性。超有名英語ジャーナルにインパクトファクターの高いエーゴ論文をガシガシ載せることだけに全知全能を傾ける知性には出来ない、地味な汗かき仕事ですよ。でも、これをやる人が無いと「最高の知性」さんは快適な生活は送れない。社会の下支えをする知性。それが「最良の知性」だと思います。私はね。エリート学者の竹中平蔵が日本で何をやったか思い出していただければ、それ以上の説明は不要かと思いますが。

 さて、話を戻しましょう。何故「最良の知性」は日本語を捨てないのか。もうおわかりですよね? 知識のローカライゼーションには普遍語よりもむしろ国語や現地語の能力が重要なんです。翻訳家としての経験から言うと、ここの長さが何ミリで公差がゼロコンマゼロゼロ何ミリなんて文章なら極端な話、機械翻訳でも何とかなりますけんど、社会とか人間を扱う微妙玄妙極まりない文章では、原文のニュアンスまでも転写出来る文学的才能が必要になってくる。日本語の可能性を更に追求していかないと、世界の最先端の知識のローカライゼーションは出来ないし、ローカライズした知識をローカルの人たちに実装し、実践に移していくには、ローカルの風土文化歴史地縁血縁にまでもアタマのてっぺんまで浸かる覚悟が要る。その土地の泥に浸かって這い回る気概が要る。

 ね。人類共通の叡智をいざ実際に人類の幸福追求に役立てようとする場面では、「最高の知性」と同じくらいに貴重な「最良の知性」という才能を必ず必要とするんです。ローカライゼーションをやる知性をね。著者が高く評価する近代日本文学の書き手たちの多くは、その両方の仕事をやった。やらざるを得なかった。人材の絶対数が少なかったから。今は違います。ユニバーサライゼーション担当の人、それに向いている人はそれをやれば良いですし、そういう競争に萌えないけれども同じくらいアタマが良い人たちもいっぱいいるわけですから、そういう人たちがローカライゼーションを担当すりゃあ良いの。

<普遍語>のような<外の言葉>を読むのは、書くのに比べてはるかに楽な行為である。すると、<叡智を求める人>は、自分が読んでほしい読者に読んでもらえないので、ますます<国語>で書こうとは思わなくなる。(254ページ)

 そりゃ違うよ。笑うとこですよねここ。世の中には少なくとも2種類の人間が居るんです。自分の名前を残すことに最大の興味がある人は、そりゃ「普遍語」で書くでしょう。自分の知識、自分の思考を社会に役立てたいと思う人は、ローカルの言葉で、ローカルの人々に伝わるように、全身全霊を込めて「国語」で書くさ。普遍的な知識を求めることも人間の本能かもしれないけど、仲間を助けることだって人間性の根本にあるんだからね。

 日本語はこれからも深くなっていきますよ。勇気と自信を持って前に進もうじゃないの。