宗谷岬から江別まで歩く

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 続いて北海道でのプレイベント。宗谷岬から江別市の対雁(ついしかり)まで1ヶ月かけて歩くという試み「ピリカ ケゥトゥム アプカシ」です。

 何かのメッセージを社会に発信する為に歩く、あるいは自分の内面と対話する為に歩くというのは、決して珍しくはない行動です。デモ行進しかり、巡礼しかり。それではこの「ヒーリングウォーク」はどういった位置づけなのか?

 私が発案したわけではないので、本当のところは解りません。ただ、このルートが選ばれた理由は明言されています。かつてサハリン島のアイヌが北海道島に移住させられた時に、彼らが辿ったルートだということ。

 そんなことがあったのかって? あったんですよ。

 現代のアイヌのルーツを辿ると、北海道島で縄文文化に含まれる文化様式を保持した集団に行き着きます。ただし現在の研究レベルでは「縄文文化」という文化様式は非常に幅が広いものと考えられているので、北海道島の縄文文化と関東や東海や近畿、九州、琉球諸島などの縄文文化は、それぞれ別モンだと思っておいた方が良いくらいです。

 その後、本州島の西側3分の2くらいは弥生文化に移行し、古墳時代には統一政権を作りましたが、北海道島の縄文人は縄文文化の路線を更に追求して続縄文文化、擦文文化と発展させていきました。一方、北海道島のオホーツク海沿岸やサハリン島で5世紀頃に生まれた海洋文化、オホーツク文化というのがありまして、擦文文化と並行して北海道島にオホーツク文化人と今日呼ばれる集団が存在していました。このオホーツク文化と擦文文化が混じり合った地域では、トビニタイ文化という新しい文化も生まれています。

 これら3つの文化、そして本州島の日本人との交易活動の中から13世紀に生まれたのがアイヌ文化です。かなり難しかったと思いますが、理解出来ましたか? ここから更に難しいですよ。このアイヌ文化の成立をきっかけとして、北海道島(=アイヌモシリ)に住む人々はほぼ同質の文化を持つ集団になります。だから、現在ではアイヌ民族の歴史の始まりをこの時点に置いている。

 それでですね。こうして生まれたアイヌの一部はサハリン島まで進出して、そこに根を下ろした。これがいわゆる樺太アイヌです。彼らの故郷は北海道島ではなくサハリン島だった。ところが明治時代になって、日本とロシアが国境線を(アイヌに無断で)北海道島とサハリン島の間に引いた時に、サハリン島に居たアイヌは日本人になるかロシア人になるかを選ぶことになった。これは完全に日本とロシアの都合だったんですが、ここで日本をチョイスした人々は、それじゃあってんでサハリン島から出ていってくださいということになり、北海道島へ移住させられたわけです。その時のルートをもう一度辿ってみようというのがこの企画なんですね。

 彼らが強く意識しているのは、北米先住民たちが続けているウォーク・イベント「ザ・ロンゲスト・ウォーク」であったり、インドに居るチベット人たちが行っている「マーチ・トゥ・チベット」であったりするようです。「ザ・ロンゲスト・ウォーク」は1978年以来行われているもので、その根はホクレアの航海と同じ、アメリカ合衆国内の先住民運動です。きっと「ピリカ ケゥトゥム アプカシ」もポリネシア人たちがやっている航海カヌーの旅も、旅をしながら考えるという点では同じものなんだと思います。

 注目したいのは、この「ピリカ ケゥトゥム アプカシ」への参加資格に制限が無いらしいこと。そもそも発起人の中にアメリカ人が二人入ってますしね。ジェフ・ゲイマンとアン=エリスは先住民族サミットの翻訳・通訳チームのリーダーで、私もよくメールをやりとりしています。残念ながら私はこのイベントには参加出来ませんけれども、都合が付く方、参加してみると、何か新しいものが見えてくるのかもしれません。

 ウォークの最終日は6月29日。翌日は先住民族サミットの前日です。何となく私も30日にはアイヌモシリ入りせざるを得ない雲行き・・・・。去年、横浜に来てもらった手前、来いと言われたら断れないんですが、二風谷って遠いっすよ(笑)。

ピリカ・ケゥトゥム・アプカシのウェブサイト
http://web.mac.com/pirka.kewtum.apkas

ザ・ロンゲスト・ウォークのウェブサイト
http://www.longestwalk.org

マーチ・トゥ・チベットのウェブサイト
http://tibetanuprising.org/