今日は本の紹介です。
池橋宏『稲作の起源:イネ学からの挑戦』講談社選書メチエ、2005年
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/406258350X/ref=ase_hokuleaunof0e-22/
新聞の書評などでもそれなりに採り上げられたような記憶がありますが、なかなか刺激的な本です。この本の主張を簡潔にまとめると、次のようになります。
・ イネが栽培化された(農作物として使えるような品種になった)のは長江下流域である
・ イネは最初から水田で栽培される品種として栽培化された
・ 最初に栽培化されたイネは多年性である
・ 最初に栽培化されたイネの栽培形態は根栽農業であった
といっても、これのどこが刺激的なんだかわからないですよね、普通は。順に解説しましょう。まず、池橋さんの立論の背景から。
日本では、1960年代から現代に至るまで、「照葉樹林文化論」というものが非常に大きな力を持っています。これは、雲南・チベットあたりから日本列島の西半分くらいまでに分布する「照葉樹林」(無理矢理に針葉樹を植えない限りではシイ、カシの木が優勢な森林)には、かなり共通性の高い文化が存在しているという考え方です。
参考リンク
http://www.kumagaya.or.jp/~sizensi/print/dayori/13/13_4.html
例えば、目出度いことがあると餅を作る(モチがハレの食べ物とされる)とか、漆器を作るとか、焼き畑農業をやるとか(一方、日本列島の東半分はナラ林文化とされ、縄文式の生活をやるには最適の植生とされました)。この考え方のポピュラー文化での応用例として最も有名なのは、映画「もののけ姫」です。あの映画で描かれていた人々の生活というのは、中世以前の照葉樹林文化の想像図なんですね。宮崎県の椎葉村(しいばそん)あたりが日本では典型的な照葉樹林文化地域とされていて、文化人類学者が沢山入り込んでいます。
さて。この考え方と、20世紀前半の農学で非常に影響力のあった「種の多様性が最も大きい地域がその種の原産地である」という考え方が稲作というテーマで結合していたというのが、池橋さんの本が出るまでの状態でした。
イネの品種の遺伝的多様性が最も大きいのが雲南・チベット地域なのですが、その地域はまさに照葉樹林文化の核心地域で、そして、「焼き畑で陸稲を作っている」地域でした。ここから出てきたのが「イネは雲南・チベットで焼き畑の陸稲として栽培化された」という考え方。
一方、池橋さんは、実際にイネの品種改良や栽培法の研究を長年(農水省の技術官僚として)やってこられた方で、イネを触りたおした経験からして、照葉樹林文化論系のイネ論はどうしても納得がいかなかったのだそうです。詳しい説明は省きますが、一言で言えば「照葉樹林文化論のイネ論は、自分で実際にイネ作りをしてみれば、それが不可能であることが明らかなような栽培法を前提にしている」ということ。特に除草作業に必要な人手の計算が無茶苦茶で、古代の生業の形態からして到底そんな人手は割けないような栽培法が、「焼き畑の陸稲」から「水田」への以降プロセスの中で存在したとされていると。
そこで池橋さんが考えたのが、上記の4つの主張でした。
まず池橋さんは、イネは今のように種籾(たねもみ)を使う繁殖法だっただろうかと考えます。照葉樹林文化論では種籾は陸稲と同じように水田でも最初は直播きされていたと考えるのですが、それは現在の農業技術でも極めて難しい栽培法で、古代にそんな神業が出来たわけがないというのが池橋さんの考え。そこで池橋さんが目を付けたのが、タロイモでした。
ご存じのように、ポリネシアやミクロネシアでは、タロイモの水田栽培が古代から行われており、ビッグアイランドのワイピオ渓谷では今でも見事なタロイモ田がグァバの森の中で営まれているのを見ることが出来ます。
http://blogs.yahoo.co.jp/asdhsdasdoas/1881195.html?p=1&t=3
サタワル島でも島の中央部の沼地にはタロイモが生えているらしいです。
このようなタロイモの水田栽培は何故始まったのか、そしていかにしてはじまったのか。タロイモが沼地に野生状態で生えていて、それを抜いて食った後に茎や小芋を沼地に埋めておけば、そこからまた新しい株が生まれるから、じゃあ人工的に沼地(=水田)を作ろうとなったのでしょう。
それと同じように、イネもまた沼地に自生していた多年性の品種を株分けで栽培したのではないか(一年生の品種だと株分けが難しいので)。これが池橋さんの推論です。というのも、それがイネを栽培する上では技術的に一番簡単だからです。イネを栽培する上での最大の難関は「種籾から株をつくるのが難しい(だから苗代をつくる)」「雑草の防除が難しい(特に焼き畑以外の陸稲)」ということ。しかし株分け栽培なら苗代は要らないですし、最初から水田を使えば雑草の量も陸稲よりはるかに少ない。加えて、陸稲ではどうしても連作障害が出て3年程度で地力は4割程度まで減ってしまいますが(だから焼き畑は次々に耕作地を放棄していく)、水田ならばどんなに適当にやっても地力が8割以下になるということがない。
すげー有利じゃないですかそれって。それならば、サタワル島みたいに「集落の中にある小さな沼地」で片手間に栽培出来る。そうやって栽培化された後に、品種が変化していって(収量が増えていって)、稲作一本で食えるくらいになったところで、徐々に耕地面積を増やして、他の生業から手を引いていけば良い。これが一番無理がないシナリオだそうです。そして、それをやるなら最高なのが長江下流域だろうと。長江下流域のタイ語系の諸民族が水田での稲作を開始して、それが東南アジアや日本列島に伝播したのではないかと。
長江下流域。思い出してください。リモート・オセアニアの航海民たちの故地もこの地域とする説が有力でしたよね(ブラスト=ベルウッド仮説)。
http://www.geocities.jp/hokulea2006/timetable.html
池橋さんの推定では、イネの栽培化はおよそ9000年前くらいに遡るそうですが(実際にその時期の水田の遺構が長江下流域から出ている)、そうなると、東南アジア経由でリモート・オセアニア方面に向かった人々がその地域でタムロしていた6000年くらい前には、イネの水田栽培は既にそこにあったわけで、何故彼らが栽培種のイネを持って船に乗らなかったのかだけ、ちょっと興味があるんですが。タイ語系諸民族とオーストロネシア語系諸民族の違いなんでしょうか。
その辺、どう思われますか、後藤明先生(『海を渡ったモンゴロイド』も引用されてますよ)?