この週末は東大寺で有名な修二会がありました。二月堂の中を松明を持って走り回る、あの有名な行事です。
しかし、いつから有名だったのか?
だってこの行事は、西暦で言えば752年から、毎年続けられてきた行事なんです。今年で1253年目ですか? それくらいですよね。すげー。
司馬遼太郎さんは著書『街道をゆく24:近江散歩、奈良散歩』の中でこの行事に触れ、その続きかたを次のように表現しておられます。
「敗戦どころでなかったのは、明治初年である。かれらは、興福寺の僧がこぞって興福寺をすてた明治維新の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のときでさえ二月堂にこもってこの行法を修していたのである。また戦国乱世のころも日が来れば夜々それをやり、応仁の乱のときも欠かさずやり、また公家が日本国の支配者である権能をうばわれた鎌倉幕府の成立のころもそれをやめることがなかった。
どういう変動期にも、深夜、二月堂のせまい床の上を木沓(きぐつ)で走り、また跳ね板の上に自分の体を投げて五体投地をやり、あるいは「達陀(だったん)」という語彙不明のはげしい行法では堂内で松明を旋回させてまわりに火の粉をふらせるのである。」
つまり、ほとんど世間から隔絶されたところでひたすらに、あれを続けて来たんですねえ。
特に天晴れだったのは、廃仏毀釈の時にもこれを続けたという事。
廃仏毀釈というのは、明治維新後に、それまで神様と仏様を一緒にお祀りしていた全国の寺社に政府がお触れを出して、仏教は外国の宗教なので日本国の神様と一緒に祀ってはいけないと申し渡した結果、「そうかもうお寺なんか要らないんだな、じゃあ潰してしまえ!」という雰囲気が盛り上がって始まった、仏教の大弾圧運動のことです。
詳しくはこちらを。
http://www.tabiken.com/history/doc/O/O206C100.HTM
http://www.photo-make.co.jp/hm_2/ma_19_5.html
しかしねえ、「外国の」っつったって、もう仏教の正式伝来(一応538年ということになっています)から1300年以上も経っているわけだし、そもそも1200年前にそういう事を言っていた物部氏を滅ぼしたのは当の天皇家じゃなかったでしょうか。法皇といって仏門に入る上皇も一杯いたわけだし、天皇家のお葬式だって仏式でやっていた時代もあった。
もう日本の文化と不可分なまでに融合しているものを、脊髄反射みたいにして何も考えずにひっぺがして捨てるなんてのは、アホですなアホ。この時に日本の仏教美術の大半が灰燼に帰したと言います。「外国の」、じゃない。「日本の」、ですよ。先人たちが1300年かけて生みだし、育て、洗練させてきた文物を打ち壊してしまった。興福寺のあの五重塔なんかタダ同然で売りに出されたけど、解体して薪にして燃やしてしまうにも費用の方がかかるってんで放置されていたんだからね。廃仏毀釈は日本史上屈指の暴力的排外主義行動の時代でした(もう一つは勿論太平洋戦争期でございます)。自分の左側の手足を「サヨクは許さん!」とか喚いて切り飛ばしてるようなもんです。なんたる「反日」的行動。この時、外国人がタダ同然で大量の仏教美術を買い集めて生まれたのが、皮肉にも海外の日本美術コレクションの基礎になっているんです。
こういう馬鹿なことを二度としないためにも、私たちは勉強をしないといけない。日本とは何なのか、日本とは何であったのかを、感情を排して、良い面も悪い面もきちんと実証的に学ぶ。勉強は本当に大事です。そして、どんなモノにも良い面悪い面が必ずあり、悪い面を排除してはモノとして成立しないという事も知らなければいかんと思います。
ポリネシアの人々が一度は航海カヌーを捨てて、便利な西洋船に乗り換えてしまったように、私たちの国もまた一度は仏教を捨てた歴史があったのです。とすれば、ポリネシアの人々が今また航海カヌーについて学んでいるように、私たちも自分の国の伝統文化について学んでみても良いのではないでしょうか。
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画像は奈良市の薬師寺の回廊の瓦。薬師寺もまた一時期は荒れ放題で、本尊薬師如来など雨ざらしのままでしたが、現在では立派な伽藍が再建されています。特に西塔が西岡常一棟梁の手で一から再建されたのは有名ですね。この再建事業そのものが、日本の伝統的木造建築術の再発見と伝承の場でした。ハワイがハヴァイロア号の建造で経験したのと同じような事が、ここにもあったのです。