秋篠宮家に第三子誕生か、ということで、にわかに盛り上がりを見せております皇室典範改正問題。私の意見は以前に書いたように、女性天皇・女系天皇で問題無いというものです。そもそも天皇家の祖神は誰かという話になると、イザナギ、イザナミの男女神が国土を作った後、まずは男神であるスサノオの男系の直系の子孫である大国主命が国津神の頭領として地上を治め、その後、天照大神の子孫であるニニギの系統のカムヤマトイワレヒコが日向から畿内に入って初代神武天皇となった、とされています。
さて問題。天照大神とスサノオ、どちらもイザナギ・イザナミの夫婦神から生まれたわけですが、天照大神が両親から日本国に関する権利を継承したと解釈すると、これは男系相続でしょうか。それとも女系相続?
もうおわかりですね。日本創世神話では、国土はイザナギ・イザナミの夫婦神から天照大神という女神に継承されたことになっています。今も伊勢神宮の内宮に鎮座している、日本で一番神格の高い神は男神ですか? 女神ですか? ね?
まあそんなわけで、別にどっちだって良いんじゃないの、というのが私の偽らざる感想でございます。ただでさえプレッシャーがかかる妊婦に余計な政争のゴタゴタまで背負い込ませたら可哀想だよ。
と、ここまでは前置き。
今日は久しぶりにまた、スピリチュアリティ・シリーズ。ただし、これまでこのウェブログで色々な思索を重ねて来て、内田正洋さんがナイノアさんから問をかけられたという「日本人のスピリチュアリティ」という概念は、むしろ日本列島人という捉え方をした方が使い勝手が良いと判断しましたので、以降は「日本列島人のスピリチュアリティ」とシリーズ名を変更して続けたいと思います。
先日、哲学者の中沢新一さんと民俗学者の赤坂憲雄さんの対談『網野善彦を継ぐ。』を読んでいたら、その中で面白い指摘がありました。網野さんは先頃亡くなられた日本中世史の研究者で、歴史学界では異端の存在でしたが、日本列島の捉え方という点で様々な問題提起をした、偉大な哲学者でもありました。
網野さんの行った指摘はいくつかありますが、特に有名なものは、次の四つです。
・ 日本列島に日本国が出現したのは奈良時代であって、弥生時代の日本国とか縄文時代の日本国などという概念はあり得ない。
・ 日本列島人は田圃で稲を作っている人だけで成立していたのではない。百姓とは、本来は稲作農民以外にも畑作農民や漁民、狩猟民を含んだ概念である。よって、稲作農民にばかり注目した日本史理解は偏ったものである。
・ 水は人々を隔てるものではなく、むしろ水上交通は近代以前、もっとも早く安全な移動手段であった。日本列島は海によって孤立していたのではなく、海によって全ての方向に開かれた土地だった。
・ 日本列島社会は、どこかに定住して「百姓」となった人々だけではなく、各地を漂泊して歩く人々(多くは被差別民)によっても担われていた。
中沢さんは、四つめの指摘に関連して、天皇は漂泊民たちの王でもあったという網野さんの指摘から、天皇は単なる日本列島の定住社会の王として出現してきたものではなく、それよりもさらに深い、定住と漂泊という、人類社会の二つのありようにともに権力の根を下ろした存在なのではないかと考えているのです。
ちょっと難しいかもしれないので、わかりやすく解説しましょう。
日本列島に弥生式農耕が入って以降、そこから生み出される農作物が大王の権力を支え続けたことは論を俟ちません。天皇が行う神事の多くが豊作を祈る農耕儀礼であることからも、これは明らかです。
ですが、同時に、漁師や漁民、芸能民(鋳物師や傀儡師)など、定住農耕民以外の、各地(や色々な海域)を漂泊しながら生計を立てる人々も日本列島には沢山存在していて、彼らは農民を支配する制度の外にあり、直接、天皇に仕える者として、経済的にも天皇を支えていたのです。
これが何を意味するのか。単純に言えば、「弥生式農耕が日本列島に入ってきて、そうした稲作農民の長として出現した大王の後裔が、天皇である」という理解は間違っているということです。だって天皇は漂泊民の王でもあったわけですからね。もしかしたら、弥生以前の列島社会から続く、言わば列島文化の最古層、縄文文化の民の王というところに、その淵源があるのかもしれない。
私は、だから日本国民は天皇陛下の赤子・臣民であり、日の丸と君が代には絶対の忠誠を誓って、国家の為には全てを犠牲にしなければならない、とかの軽薄な話をしているわけではないですよ。そういう薄っぺらい思想は近代の産物、近代の国民国家概念と天皇制を悪魔合体させただけの代物ですから。
もちろん、縄文文化の民の王と言ったって、現実の歴史として、大和政権は平安時代末まで日本列島北方の続縄文・擦文文化の民を征服できなかったんだから、天皇家が本来的に日本列島の王であるという理屈にはならんとです。
ですが、天皇という存在が、定住社会の民の王という単純な存在では無いことは気をつけておかなければいけません。ヨーロッパの国々の王が、堀田善衛さん言うところの「バーの雇われママ」のように、支配される方の都合と王位継承権のトリックで、傍目にはあまりにも無節操に相続されていったのとは違う。やはり、日本列島の自然と深く結びついたものとして捉えられて来た時代もあったという側面は否めない。
言わば、日本列島人のスピリチュアリティの一つの発露として、天皇というものがある。そこの所は、皇国史観や自賛主義史観の問題とは切り離して、理解しておかなければならないように思います。