津軽で淡路を

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 勢いでもう少し北方世界の話を続けます。

 『北の内海世界』を読んでいて私が思い出したのは、成田美名子さんの漫画『花よりも花の如く』の3巻に出てくる能「淡路」のエピソードでした。

 主人公は東京在住の若い能楽師で、母方の祖父が家元である小さな流派の名取りです(多分)。一方、父方は青森県津軽地方の神社の神官を代々務めていて、彼はその縁で津軽の神社で「淡路」という曲を舞うことになります。「淡路」という曲はもちろん淡路島が舞台でして、ある時、大和政権の高官が淡路島を訪れて出会った老人が実はイザナギ神で、その高官に国生みの物語を見せて消えていくというお話です。

 主人公は本番の前々日、津軽のその神社の境内に一人立つのですが、高台にあるその神社から見渡した岩木山、そして津軽の大地を見て、改めて地球は丸かったということを思い出し、自らが能の小道具として使う勾玉もまた、生命の誕生の象徴であると確信して、舞台に向かうのでした。

 さて、もうお気づきの方もおられるかもしれませんが、少なくともイザナギ神とイザナミ神による国生みの神話が最初に日本列島で語られた時、津軽という所は日本国の版図ではありませんでした。『古事記』が制作されたのが712年ですけれども、8世紀初頭の津軽平野はエミシの土地と言ってほぼ問題無かったでしょう。かの坂上田村麻呂が征夷大将軍として日本国の版図を北に大きく広げたのは8世紀末から9世紀初頭でしたからね。もちろん日本人も津軽まで来ていたでしょうが、擦文文化人の方が遙かに多かった。

 今調べてみたんですが、『延喜式』(905年に制作)に記された、いわゆる式内社は青森県内には1つも無いんですね。式内社というのは、『延喜式』という古文書の「神名帳」にリストアップされた神社のことで、この頃存在していた神社、およそ30000社と推測されているそうですが、その中でも特に格が高いとされた神社のことです。私の家の近くですと、歩いてすぐの所に大麻止乃豆乃天神社(おおまとのずのてんじんしゃ)がありますし、自転車で少し行けば穴澤天神社、布田天神社があります。って天神社ばかりだな。一方、青森県ですと、大麻止乃豆乃天神社の何百倍も大きい境内を誇る岩木山神社は780年創建ということになっているようですが、しかし『延喜式』に載るほど日本国政府に重視されてはいなかった。

 言っておきますが私は岩木山神社にも参拝したことがありますからね。境内に湧いている水が美味しいんですよ。社殿も立派でまさに津軽の大地の霊気を凝縮したような神社でした。

 話を戻して、それだけ立派な神社でさえ『延喜式』に掲載されなかったってことは、裏を返せば当時の日本国にとって津軽の地はそういう土地だったってことです。

 では、『花よりも花の如く』の主人公が津軽の地で「淡路」を舞ったのはピントがズレたコンセプトだったんでしょうか?

 私はそうとも言えないんじゃないかと思っています。というのは、主人公は「淡路」に託して、大地が生まれ、人が住む場所が生まれるという根源的な神話を語っているのであって、国民国家・日本の建国を語っているわけではないだろうからです。ちょっとわかりにくい言い方になりましたかね。要するに、世界創造の神話というのは多分、日本人が日本文化を持って津軽の地に進出してくる前から、津軽の先住民の間でもなんらかの形で語られていたと思うわけですが、それとは別にして、現代に生きる者が津軽という土地、さらには地球そのものへの賛歌を奉じる時に「淡路」という物語を借用するというのもアリなんじゃないのかなと。

 もちろん、津軽の先住民の祖先神・祖霊に祈りを捧げるというのであれば、然るべきやり方があるんじゃないかとは思いますが、そういったものではない、大地とか海とか川とかそういった自然への祈りという時には、そのスタイルはわりとフレキシブルにやって良いんじゃないかなと思った次第です。だって仏教の神々だってインドから渡ってきた方々なんですからね。

例えば私の家のすぐ近く、もう誰からも忘れられてしまったような小さな谷戸の、丁度その谷戸に降った雨が一つに集まる地点に、小さなお地蔵さまが祀られているんですよ。お地蔵さまは仏教の菩薩ですから、インドからやってきた神様です。ですけれども、そういう形をその場所に置く事で、見事にその谷戸への敬意みたいなものが表現されている。そのお地蔵さまを発見した時には感心しましたね。

津軽で舞う「淡路」も、そんな感じじゃないでしょうか。