SIPETRU(知床先住民ツーリズム研究会)が昨年に続き、アイヌ文化体験ツアーを開催されたそうです。
「聖地巡礼のエコツアー/メナシの聖地を巡る」
http://www.shinra.or.jp/archives/tatsuya/002163.php
特に印象深かったのはこの記事。アイヌの老シャーマンがツアー参加者対象の講演をされたというもの。
http://www.shinra.or.jp/archives/tatsuya/002166.php
藤崎さんにお会いしたときに聞いたのですが、SIPETRUの活動のキーワードは「スピリチュアル」なのだそうです。その「スピリチュアル」とはどういった意味で「スピリチュアル(霊的)」なのか。離れた場所から藤崎さんたちの活動を見ている私は、頭ではなんとなくその意味内容を想像出来ても、実際に渦中にいる方々がどのような霊的経験をしておられるのかまではわかりませんでした。それはこういうことだったんですね。
私が思い出したのは、ユングが提唱した「共時性(シンクロニシティ)」の概念です。何の因果関係も無いはずの複数の出来事が、その渦中にいる人間にとっては必然としか思えない形で発生する。それが必然であったのか偶然であったのかは、自然科学の方法論では検証することが出来ません。だから科学的にはなんとも言えない。ノーコメントとしか申し上げられない。しかしユングはこう考えたのです。人間が多数集まって社会集団を作っている時、その集団には(個々の個体の持つ無意識と同じように)その集団独自の無意識が発生する(集合的無意識)。一見して因果関係が発見出来ないにも関わらず、因果関係が存在するとしか思えない複数の出来事の発生は、実はこの集合的無意識が引き起こしている。
この理論自体、現在の自然科学のレベルでは検証が出来ません。だから何とも申し上げられない。好意的に言えば「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」。批判的に見れば「トンデモ疑似科学」。
私自身の立場は前者です。なんとも判断出来ない、証明されていない仮説に過ぎないと思っています。ですが、そのように解釈することが建設的である場合は存在する。藤崎さんとレラさんの関わりなどはその好例だと思います。偶然なのかもしれないけれど、藤崎さんはそこに必然を見た。そうしたら、その必然の影に「乗ってみる」という選択は、面白いと思うのです。というのは、必然か偶然かの自然科学的な検証はともかくとして、それを必然と思った時の人間の前向きに進む力は侮れないからです。物事を先に進めるきっかけとして、こうした共時性の利用は有益なのです。
藤崎さんたちの活動は、共時性を伴って発生する幾つかの出来事に霊性を見るという方法で、進められているというわけですね。そしてついに、アイヌのカヌーの復元が始まったとのこと。見に行きたい。見に行きたいのですが、諸事情により今は家を離れられないので我慢、我慢です。
ところで。こうしたスピリチュアルな、なおかつ建設的な活動を大東京のど真ん中で行うことは可能なのでしょうか。
アイヌやマオリやハワイアンのような先住民がスピリチュアルな活動を展開するということはたしかに自然だと思うのです。一旦は断絶しかかった祖先の文化と現在の自分たちを繋いでいく為、偶然に必然を探していくという態度は極めて有効だからです。あたかも必然的に発生したような出来事を通して、「遠い過去と現在の自分たちは、繋がるべき必然性を持っている」という確信を手にすることが出来る。
では、マイノリティではない私はどうなのでしょうか。私には、共時性を最大の推進力とするような活動が万能だとは、まだ思えないのです。実は。それが自然に受け入れられるような土地と、そうでない土地があるのではないか。
例えばタヒチの言葉で「カマクラ」が「太陽の子供たち」だったというようなエピソードは、この共時性の最たるものだと思うのですが、本州島のど真ん中の大都会では、なかなかそれだけで物事がゴールまで走りきるというわけにもいかない。ゴールが大きければ大きいほど、共時性だけでは辿り着けなくなる。もうひと味ふた味、何かが必要なのではないか。そんな気がしてなりません。その答えはまだ良く解らないのですがね。まあ、のんびりと構えていくしか無いのでしょう。