俺は平成ネオ・ナショナリストだったのか!

 今月号の雑誌『論座』に、中島岳志さんの論文でちょっと興味を引いたものがありました。中島さんはインド研究の若手研究者の一番星というか、まだ30とかそこらなのに、並み居る先輩を押しのけて先日すごい学芸賞を取ってしまったという、誰もが認める秀才です。これから日本のインド現代史研究は中島さんが一つの中心になるぞ、みたいな超新星。

 で、その中島さん、ボースというインドの活動家をテーマとした博士論文が本になってそれが高く評価されたんですが、ボースという人は一番有名なチャンドラ・ボースという人もいますけれども、中島さんが採り上げたのはラース・ビハリ・ボースという人。

 この人は日露戦争の頃にインドで独立運動をしていたんですが、官憲の追求を逃れて日本に逃亡してきたんですね。偽名で。その手引きをしたのが玄洋社という、福岡にあった国粋主義者の団体です。面白いもんで、玄洋社というのはその後の各種の国粋主義的右翼団体の源流になった、その筋では誰もが知る団体なんですけれども、日露戦争の頃は欧米への劣等感からか、アジア人の団結なんてことも真面目に考えておりまして、その線で有名じゃない方のボースさんの手助けをしたんですなあ。そういう意味で、昨今の単純な国粋主義者(=アンチ中国・アンチ韓国)とは一線を画しているとも言えますね。

 さてさて、そういった研究テーマを選んだこともあって、中島さんには昨今の日本の国粋主義的言説が、大正時代のそれの再来のように思えるんだそうです。大正時代は、中島さんの解釈によれば、日露戦争に勝利したこともあって、明治時代のようにひたすら外国への憎悪をたぎらせて威勢の良い啖呵を切る単純な国粋主義から、もう少し内省的なナショナリズムへとシフトした時期なんだそうです。大本教とか国柱会のような宗教団体とナショナリズムが結びついたのがその証拠だと。

 とか書いても、なかなかピンと来ない方が多いでしょうから、具体的な例を挙げましょうか。国柱会というのは日蓮宗系の団体で、まあもともと日蓮宗は開祖日蓮からして宗教ナショナリストだったわけですけれども、一番有名な信者が宮沢賢治です。宮沢賢治。あの人は岩手の豪農の家に生まれて、実家は浄土真宗だったはずですが、法華経(日蓮宗が一番重視している教典)にハマって国柱会に入会しているんです。それでしばらく東京の国柱会本部で活動もしていました。

 ご存じのように、彼は最終的には岩手で農業指導をしながら、自然主義的な独自の文学を創造しましたよね。岩手への強い郷土愛を持っていた人ですし、実際に羅須地人協会なんて団体を作ったりもした。ところがその一方で、ナショナリズムと結びついた宗教団体にも関わっていた。

 中島さんによれば、中島さんの世代より下では、そういう形でのナショナリズムが芽生えつつあるんだそうです。中島さんは窪塚洋介にその典型を見ておられるんですが、要するに「新しい歴史教科書を作る会」とかそこから喧嘩別れした小林よしのりの「ゴーマニズム」シリーズを読みながらも、今の若い世代は小林よしのりより上の世代みたいに欧米へのコンプレックスを抱えている(=明治型排外主義)わけじゃないと。とはいっても今の日本社会には不満を持っていて、それが外に向かっては靖国問題を巡る中韓への反発のような形を取るとともに、内に向かってはニューエイジ思想や自然主義とも結びついて、「母なる大地」みたいなスローガンに惹かれているんだとか。

 中島さん自身の言葉を引けば、「ニューエイジ的生命主義からオルタナティブな世界のあり方を志向し、エコロジー、反戦平和、メディテーション、有機農業などへの関心が、縄文的アニミズムの称揚や「母なる大地」との一体感を唱えるナショナリズム」となります。

 私、若い世代にあまり知り合いが居ないので、全然知らなかったんですが、中島さんにはそう見えているらしいです。で、それを中島さんは「平成ネオ・ナショナリズム」と呼んでいるんですね。

 私、これを読んでちょっと驚きました。

 俺は平成ネオ・ナショナリズムをやっていたのかと。

 いや、私自身は靖国問題は子供の喧嘩だと思っていますし、ガス田がどうの尖閣諸島がどうの竹島がどうのなんて全然興味が無い。北方領土もそう。もともと北方領土に住んでいたのはあの土地のネイティヴであって、そういうネイティヴに日本政府が何をやったのかと言えば、全く褒められたもんじゃないんだから。それを返すというのならあの土地のネイティヴの子孫にでも返してやれよって感じ。

 そういう部分では、「平成ネオ・ナショナリズム」とやらと私の思想は全く相容れません。排外主義嫌い、国粋主義大嫌いっすから。ですけれども、自分の住む土地を愛して手入れして次の世代に綺麗なまま渡していくべきだとは思っている。そういう運動をする中でニューエイジ的な考え方は意味があるとも思っている。そういった運動の必要性の全てを理屈で説明することももちろん出来ますけど、それをやると今以上に話が長くなるし、読まない人は読まない。その点、ニューエイジ的な物言いは情緒に直接訴えかけますから、時間の節約になります。目指すところが同じなら、まあ相手によって言い方は使い分けましょうというとこですか。

(続く)