俺は「ネオリベ」だったのか!

(昨日の続き)

 一方、中島さんは、出世作になった『中村屋のボース』のまとめでも同じ事を主張していますが、大正時代の日本のナショナリズムは玄洋社のようなアジア主義、アジアはアジアで団結して欧米に対抗していかなきゃいかんという考え方を生み出したという点で、明治以前の単純な攘夷思想とは異なるけれども、結果的にはアジア・太平洋戦争の大義名分(「大東亜戦争」とか「八紘一宇」ね)として利用されてしまったんだと。だから、今の「平成ネオ・ナショナリズム」も、そういう方向に走る危険があるんじゃないかとおっしゃっています。

 まあ、載った雑誌が『論座』(朝日新聞社)なんで、編集者からそういう論調をオーダーされたのかもしれませんが、ここは私、論理の飛躍があるんじゃないかと思っています。

たしかに「東アジア共同体をどうするべ」という問題は、中長期的な日本外交の課題になっていて、先頃も各国首脳が集まって相談しておりましたけれども、今のところ、そこは端的に言えば日本と中国という両大国の主導権争いの場でしかない。

 というのは、民主党の前原代表や麻生外務大臣が言うように、日本に手を出す意思は無いにせよ(相手が強すぎるので)、中国の中には覇権主義的な思想もあって、特に台湾方面や中国内陸部方面ではその辺り、露骨になってきているわけです。そして、そういう流れをいかにして寝かしたままにしておくかということが、アジア外交の課題の一つになってきている。かようにアジアという域内で一強みたいな立場にあった100年前の日本とは、状況が違いますから、もう一度ニューエイジ的大アジア主義を掲げて第二次大東亜戦争をやろうなんてコンセプトは、成り立たないんじゃないでしょうか。

 もちろん、ニューエイジ的なものの見方や郷土愛が、排外主義や国粋主義、あるいは覇権主義に燃料を供給するという局面もあるでしょう。それは否定しません。中島さんによれば、今現在そういうことをやっている若者もいるらしい。ですが、それはニューエイジ的なものの中のごく一部に過ぎないわけです。ニューエイジャーがみんなナショナリストになるわけではないし、ニューエイジャーのナショナリストは必ず国粋主義や覇権主義に同調するというわけでもない。ですから、この部分に関して言えば、中島さんの指摘は植民地獲得競争の終盤戦だった100年前と、もはや植民地などというビジネス・モデルが時代遅れになった(良くも悪くも)グローバライゼーションの時代という、時代背景の違いを考慮しない、いささか強引なものだと私は思います。

 もう一つ私が感じたのは、やはり日本の人文系の学者さんたちの間には、ナショナリズム的なものへの恐怖感が根強いんだな~ということ。私のように、郷土を愛しましょうというようなことを主張していると、それだけで「あなたはネオリベなんですね。」とか言われてしまう。

 「ネオリベ」というのは、「ネオ・リベラリズム」の略称で、このウェブログでは「新自由主義」と呼んでいるもののことです。

 自由主義という考え方にはいくつかの流派がありますが、その中でも、とにかく個人の自由が最大限保障されているのが良いんだという「リバタリアニズムlibertarianism」が、新自由主義の出発点です。個人の自由を徹底的に追求すれば、いきつくのは「徹底的な自己責任と徹底的な自由競争」の世界なわけですが、そういうバトルロイヤルを全面解禁すると、ヒューザーや総研、木村建設などのように、ルール無用の悪党もいっぱい現れてしまう。あるいは競争だけに熱中して、それ以外のこと(子育てとか)を放棄する輩も現れる。そこで、そういう部分については、「伝統的な共同体って良いよね!」という気分を盛り上げることで、取り繕おうというのが、「新しい自由主義」、すなわち「新自由主義=ネオリベ」です。

 旧来の保守思想は、伝統を守りつつ公共工事を地方にじゃんじゃん回したりして全然自由競争も自己責任も無かったんですが、それでは政府財政がもう立ちゆかないんで、負け組救済措置は全部止めますけれども、その代わり規制緩和を徹底的にやって自由競争をとことん推奨しますから、勝ち組は大勝ち出来ますよ(でも負けたら自己責任ね)、ということですね。ただし伝統的なモラルは守ってくださいね、30代の若造が成金になっても60代の長老のが偉いんで、Tシャツとか着てこないで下さいねと。あるいは、女は事務職やパートがお似合いだから、男の領分を侵すなと。その辺は規制緩和をしないんだなあ(笑)。

 まあ、左手に「改革を止めるな」という「自己責任・自由競争」至上主義を掲げ、右手ではポケットから小銭を出して靖国神社の賽銭箱に投げ入れるという、現在の総理大臣の政治姿勢を思い出していただければ、だいたい当たりですね。
  
 しかしですよ。このウェブログは、どちらかといえばそういった思想を批判して来たんです。たしかに郷土愛の重要性を主張するという所では、新自由主義に似ているかもしれないですが、似ているのはそこだけと言っても良い。社会を「勝ち組」と「負け組」に二分して、「負けた」人たちを嘲笑うなんて冗談じゃない。

 自分の住んでいる土地を敬えとは言うしフェミニズムも批判したけれど、「ジェンダーフリー」バッシングに荷担はしない。(こういうのねhttp://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20051002)近隣諸国を無意味に挑発したり過去の日本の植民地主義政策を全面肯定したりもしない。

 にも関わらず、「ネオリベ」とか言われてしまうんですね。

 私思うに、そうやって「ネオリベ」とか「平成ネオ・ナショナリズム」とかレッテル貼りをしている学者さんたちは、ナショナリズム的なものを怖れすぎなんじゃないでしょうか。怖くて怖くてしょうがないから、「ネオリベ」とか「平成ネオ・ナショナリズム」とかの類型をつくって、それでナショナリズムをわかったつもりになって、色々なナショナリズムを全部そういう所に押し込めて、安心しようとしている。

 だから、私の主張はよく見れば「国家nation」とか「民族ethnos」ではなくて、物理的なモノとしての土地landの重要性を説いているわけで、これをナショナリズムと言われるとかなり心外なんですが、その辺をよく見てくれない。

 まあ、彼らの気持ちもわかりますよ。歴史を繙けば、郷土愛とか愛国心というのが人類社会に巨大な災厄をもたらしたという事は否定出来ないですからね。そしてまた、今現在でも中東方面2ちゃんねる方面在中日本領事館周辺方面その他、暴力的ナショナリズムが猛威をふるっている。だからこういうものには関わりたくないと思う。そりゃわかる。

 でも、生まれ育った土地や身につけた文化への愛着みたいなものは、捨てろという方が無理だと思うんですわ。人類社会がそういう心情と完全に永遠に縁切りするなんて不可能。かといって、「乗り越える」なんてのも言葉の上でしか出来ない。人類はそういうものとつきあい続けていくしかない。

 としたら、「ネオリベ」とか「平成ネオ・ナショナリズム」とかレッテル貼りをして、「自分とは関係無いから」と嘯くよりも、ここは一つ覚悟を決めて、自分の中にもそういう心情が(たぶん)あることを認めた上で、それが妙な方向に暴走しないように気を遣っていった方が良い。

前にも書きましたが、私はそのお手本として航海カヌー文化復興運動を見ています。

で、最後に一言。「中島さん、日本は一応アジアに含まれているけど、すぐ隣にはオセアニアがあります。オセアニアと日本という視点、忘れちゃいや。」