日本における人文学の斜陽と衰退が、制度面でも経済面でも言論界における存在感の点でも公然化して随分になります。
その理由はかねてから私も指摘している通り、20世紀に日本の人文学を支えた仕組みや時代性に安住して、新しい時代にキャッチアップしようとしなかった人文学の学徒たちの怠慢あるいは慢心にある。そこはほぼ間違いありません。
しかしながら最近あらためて人文学の重要性を私はひしひしと感じています。大学の敷地の中における人文学の重要性ではなく、日本社会に生きる多くの人のアタマの中、特に実業界における人文学の重要性です。
人文学は人についての探求の営みです。基本的なところで言えば文学、心理学、歴史学、地理学、文化人類学、芸術学、哲学、宗教学・・・。
こうしたものを学べば、人間がいかに不確かで多様で多彩で、しかもそれらのゆらぎが人間社会の素晴らしさを生み出しているかがわかります。
例えば同じ役者が毎日舞台を重ねるごとに変化し、それが舞台そのものを変化させる。同じ人が同じ脚本に基いて同じものを表現しようとしているのに、ですよ。もちろん同じ人が日によっては低いパフォーマンスとなることもある。それもまた「人間だから、そんなもん」です。
人それぞれが違い、しかも皆が皆、ゆらぎながら常に変化の途上にある。こうやって文章で書いて見せれば、確かにそうですねとなる。でもそれを、自分が世の中を見る時の大前提として置いているかというと、今の日本社会はあまりそんな感じがしない。
色々な組織が人をnとして、つまり数字の1単位として扱っている。制度が人をnとして設計するのは仕方なく、そこを運用で上手くやるのが人を人として扱うということだと私は思うのですが、俺の認める範囲内に入らない人はnでさえないからドラッグ&ドロップでゴミ箱にポイという感覚の人が、ちょっと多くないですか今の日本。
かつて私に「自分が信じているのは自分が稼いだカネの総額だけだ。これだけは誰が見ても間違えようのない自分の価値だ。」と言い切った社長がおりました。カネのためには労働法破りもバレなければアリという感覚の社長もいっぱい知っています。皆さんに共通するのは人文学の圧倒的不足です。稼いだカネだけが適切な人物評価の指標なら悪いことしてもバレなきゃOKになっちゃうだろ。え。ナニワ金融道かよ。
昨日からかなり毎日の時間に余裕が出来たので小説を読んだり楽器を弾いたりして人文学の世界を久しぶりにたっぷり味わっていますが、乾ききったヘチマに水が染み込むようにして、人間らしさというものが私の中に蘇ってきています。この潤いが心にあってこそ人生は生きるに値すると思いますし、これの感覚こそ、人文学徒が日本社会にアピールし続けるべきものと確信した次第です。