「心のバリアフリー」がウルトラハイコンテクストなニーズ先読みの「おもてなし」ゲームになったらダメです。

ふと気になって「心のバリアフリー」に対応する英語があるのか調べてみたが、そもそも「バリアフリー」というのがあまり英語圏では使われていないようで(accessibleとかuniversal design)、一体「心のバリアフリー」とは何なんだという思いが強まっている。

内閣官房オリパラ事務局が今年3月に出した資料では

「障害の有無等にかかわらず、誰もが相互に⼈格と個性を尊重し⽀え合う「⼼のバリアフリー」」

と書かれているが、とすればdiversityで事足りる気がするんだな。

ただちょっと気になるのは、ここを商機と見て変なコンサルが、「心のバリアフリー」と称して海原雄山と山岡士郎の対決みたいなウルトラハイコンテクストなニーズの先読み教室をソリューションとして売りつけてないかってこと。

障害者について「理解しよう」「知識を持とう」ってのは一見納得しやすいソリューションの方向性だけど、プロ中のプロである特別支援学校の教員とか障害者就労支援施設のスタッフだって、扱える障害の範囲はせいぜい知的・精神・聴覚・視覚・肢体不自由・病弱・発達くらいの大分類のうち一つか二つ。しかも、基礎知識や事例の知識を持っていてさえ、基本的には一人一人違うことを前提にして、目の前の人と向き合うしかないよねって世界だ。

一般市民が、ナントカ障害の人にはこう接しましょう、でもこうすると傷ついたり不快に思われるから注意、とかカタログデータみたいなのをドンと渡されたって、手に負えるわけない。

LGBTのカミングアウトとアウティングの事件でも思ったことだが、お互いに違うし、知らないんだから、コミュニケーションしないと適切なソリューションは出ない。出るわけないです。コミュニケーションの特に最初らへんでは、ギクシャクするのも当たり前で、そこでお互い違和感感じたりイラッとしたり傷ついたり、それさえもゼロにしようとするのは無茶です。私も今まさに新事業所の立ち上げで、その「立ち上がりの違和感」をいかに潤滑するかに神経使ってます。お金もらって。

「心のバリアフリー」と称してスーパー先回り「お・も・て・な・し」ソリューションのコンサル商売を展開するのは、いかにも現代日本っぽいゼロリスク仕様の追求マインドにつけ込んだやり口だけど、ゼロリスクはダイバシティのある社会ではなおさら無理ね。