逢妻川を渡れ

 大阪から戻りました。近世日本史を研究している学者さんと飲み、国立民族学博物館を見学しと、なかなか充実した出張でございました(完全に本来の用事が脇役になっております)。

 私の家から大阪に行く場合、羽田から飛行機に乗るか、新幹線を使うか。私、飛行機はあまり好きじゃないので、迷わずに新幹線をチョイスです。

 その新幹線ね。今日の帰り道、ふと窓の外を眺めると、見慣れた景色がありました。新幹線は尾張と三河の国境を流れる事から名付けられたという境川を越え、そしてすぐにまた逢妻川(あいづまがわ)という川を越えて東へと向かう。この二つの川が合流する辺りこそ、私が生まれ育った土地なんです。私の家の墓地は東海道新幹線の高架のすぐ脇にある。これは角度的に新幹線の車窓からは見えませんけれども。

 私がガキの頃に、陸カヌー(=自転車)で走り回った集落は、見慣れないマンションこそ二つ三つ建っておりましたけれども、まあだいたいあの頃の感じでそこにある。初詣にセミ捕りにと折に触れて訪れていた鎮守の森もちゃんとそのまま残っていて、これも車窓から見える。鮒やナマズを釣った用水路もね。もう10年近く立ち寄っていないですけど。

 要するに私のルーツ、Hometownです。

 丁度その時でした。MDプレーヤーからこんな歌が流れてきました。

「コンビナートの灯がゆれる 海へと続く泥の河
 言葉はいつも嘘を付く いつでも何かを守るため
 生まれた街が大好きさ 海からの風 大好きさ」

 上々颱風のアルバム「八十日間亜州一周」に収められていた「夜の河を渡れ」の一節です。このタイトルはきっと梁石日さんの小説にかけてあると思うんですが、ともかく、「ああ、その気持ち、わかるよなあ。」と思ってしまいました。私だってあの土地、境川と逢妻川が交わる土地は大好きですからね。

 しかし。それだけじゃないんだな。同時に、何かこう、釈然としない思いもこみ上げてきたんですわ。うまく言葉にしづらいですが、敢えて言えば「俺のルーツを返せこのヤロー」という思いね。

 生まれた集落にマンションが建ってイヤだとか、逢妻川の護岸がムカつくとか、そういう意味じゃないですよ(逢妻川の護岸はムカつきますがね)。それは本当に必要だったならしゃああない。実際、逢妻川も私が住んでいた頃に氾濫してましたからね。うちももう少しで床下浸水だった。

 そういうんじゃなくて、こう、私みたいな日本社会の多数派って、沖縄や北海道の先住民みたいにわかりやすく先住民なわけじゃないし、在日朝鮮・韓国人や華人をはじめとする、他の土地から移り住んで来て間もない方々のように確固としたエスニック・グループがあるわけでもない。まあ、私の家系は何故か父系も母系も異常に毛深いんで、もしかしたら本州島北方から移住させられた「蝦夷」の血も先祖に入っているかもしれないですけども、そんなものは調べてもはっきりとはわからんわけで、君は誰かと言われたら、尾張と越中のネイティヴの子孫だと言うしかないですわね。

 ところがですよ。繰り返しになるけど、私のような人間が、アイヌの方や沖縄の方、あるいは移民してきて間もない家系の方の前に行くと、「日本社会の多数派」で一括りにされてしまう。逆に、自民党や民主党の政治家が「国を愛する心を育てましょう」とおっしゃる時(あるいは共産党や社民党の政治家がそれに反発する時)には、私は日本国というこのクソ広い国家の内側に居る均質な、つまり秋田の人とも徳島の人とも福岡の人とも取り替え可能な「日本国民」という、無味乾燥なものとして扱われてしまう。

 そういう意味では、自民党や民主党の保守系政治家も、共産党や社民党の革新系政治家も、さらにはアイヌも沖縄人も在日も華人も、私のルーツ、私が自分で自分のルーツだと思っている「境川と逢妻川の交わる地」という個別で特殊な事情を、ちっとも見てくれとらんわけです。

 こいつは寂しいですよ。俺だって俺の故郷、愛知県刈谷市泉田町のネイティヴなんですよ。もう言葉だって喋れなくなっちゃったけどさ。でも、愛知県刈谷市泉田町と同じようには、秋田や徳島や福岡を愛せないです。徳島なんか行ったこともないもん。

 ここで、今月号の『Tarzan』で内田正洋さんが書いておられた話に繋がります。内田さんは、以前お会いした時もそうでしたが、「俺は山口アイヌだ」という言い方をされるんですね。アイヌというのはアイヌ語で人という意味ですから、要するに「山口人」。アイヌも和人も、同じ日本列島のネイティヴだろ、というのが内田さんの主張です。内田さんは、沖縄を語る時にも、どちらかと言えば九州以北との共通性に注目していく立場でした。つまり、日本列島という地域の内側はネイティヴで溢れているという所までは私と同じなんですが、そこで内田さんは列島の文化の均質性を見るわけです。

 それも一つの見方ですし、決して間違ってはいない。使っている言葉だって九州以北、青森以南は少なくとも同じ文法ですから。ですが、私は敢えて、日本列島の住民のそれぞれに、自分が生まれ育った町のネイティヴとしての意識を持とうよと言ってみたいですね。日本国の内側を均質にする運動ってのは、明治以来150年やってきたから、もう良いだろうと思うんですよ。それは植民地主義や冷戦の時代に安定した社会を作る一つの政治的選択ではあっただろうと思います。今更否定はしません。それによる利益だって私たちは得ているんだからね。

 でも、そっちにばかりかまけている間に、生まれた町を慈しむことを疎かにしていたんじゃないのかなって思いませんか? だから、敢えて自分を、自分が生まれ育った町のネイティヴであると規程してみる。それでこそ、ネイティヴの心とは何か、ハワイやアイヌや北米先住民が、それぞれの生まれた土地のネイティヴとしてやろうとしていることの意味、理由がわかるんじゃないかと思うんですよ。

 違いますかね?

 最後に、大阪でお会いした日本近世史の先生のお言葉。

 「その土地のこと(研究)は、その土地で生まれ育った人がやるのが一番ええ。だから私は、大阪のことをやっとる(大坂の近世史を研究している)んです。」

 これぞNative Heartですね。