ご存じの方もおられるかもしれませんが、今月の初め頃、日本国内のとある寒村でタブーを巡る一つの事件が起きました。その寒村には女人禁制の聖地というのがあり、それは今でも出来るだけ女性には入って欲しくないということで、女性の立ち入りはご遠慮下さいとなっている場所なのですが、そこに急進的フェミニズムの信奉者や性同一性障害者など、タブーが入域を禁じている、あるいはタブーが想定していない人たちが公開質問状を送りつけて、数十人の集団(とマスコミ)で乗り込んだという騒ぎ。
これに対し、地元の方々は公開質問状に答えることはせず、ただ「入域はご遠慮下さい」とだけお願いしてこの集団を放置。結局、集団の中から女性が3人、入域を強行して「問題提起」をしたのだそうです。
ここで問題になっているのは、女人禁制のような「伝統」、現代の日本で一般に受け容れられている、近代的な人権の普遍性を当然のものとする価値観と衝突するような「伝統」を、私たちはいかに扱うべきかということです。
片や、そういうものが現代に残っているのは許せないという人々がおり、片や、これは伝統であって差別ではないという人々がいる。どちらの言い分にも聞くべきところはある。
私はこのウェブログで、伝統的なものに再び目を向けようということを散々に提案してきましたけれども、そういうことを押し進めていけば、どこかでやはりこういった問題にぶつからざるを得ない。それでは、そうなったときにはどうしたら良いのか。
私は、基本的には、その「伝統」を担う人たちが決めれば良いんじゃないかと思っています。既に途絶えてしまった「伝統」を復活させようというのならば、その時それを復活させようとしている人たちが、その時点で最適だと思われるルールを決めたら良いと思う。
逆に、大相撲や野郎歌舞伎など、男女の別を立てて長年続き、またそういった伝統を守り伝えて来た人たちが現在も存在するのであれば、それは外部の者がどうこう言うべき話ではなく、それを担う人たちが決めるべきことだと思います。問題の寒村の土俗信仰もそうですが、「伝統」というのは時代によって、その時代の事情に合うように手直しされて来ている。万古不変の「伝統」が厳然と存在しているわけではありません。重要なのは、「これは昔からずっと続いてきたものだ」という信念であり、そういった信念によって結ばれる、過去と現在の絆なのです。例えば、比叡山延暦寺には「不滅の法灯」というものがある。言い伝えによれば、延暦寺を開いた伝教大師最澄が、最初に比叡山に庵を結んだ時に灯した火なのだそうです。それを、1200年の間、油をつぎ足しつぎ足しで灯し続けてきたと、延暦寺の人たちは考えている。それが事実かどうかはもはやわかりませんが、そう考えることで何か建設的な営みが力を得るのであれば、敢えてチャチャを入れるような話ではないでしょう。
今回の事件では、わざわざそんな寒村に外から乗り込んでいって「問題提起」のパフォーマンスを繰り広げた方々が、盛大なバッシングに遭っているそうです。まあそうだろうなと思いますけどね。だって意味無いもん。その寒村の住人でもなければその土俗信仰に帰依している・帰依したいというわけでもない人たちが、わざわざそんな所に乗り込んでいって、地元の人たちが大切なもの、聖なるものと考えているタブーを破ってみせる。それをインターネットで公開して「問題提起」する。
私はこれを、著しく品位に欠けた行為だと思います。品性下劣だと思う。エレガントじゃない。そんなことする前に、国立大学法人・お茶の水女子大学を男女共学にしてくれと私は言いたい。
たしかに、時代に合わなくなったタブーは除去されて良いと思いますよ。かつてハワイでは、様々な男女差別を含むタブーが置かれていましたけれども、カメハメハ大王の王妃の一人、カアフマヌが、これを積極的に除去していきましたね。それは、当時のハワイの社会にそういった機運、流れがあったからこそ、上手く行ったんだと思います。時が満ちていた。時が満ちたから、そのタブーを守ってきた人々自身の手で、タブーは除去された。
あるいはホクレア号がライアテアのタプタプアテア・マラエで除去した航海のタブーというのも思い出されます。かつてライアテアのタプタプアテア・マラエは、ポリネシア各地の航海者たちの聖地でしたが、その聖地で起きた小競り合いの結果、この聖地に船が来航することはタブーとなりました。これが、アオテアロアのマオリとタヒチの断絶のきっかけの一つとなったとも言われています。
しかし、1995年、ホクレア号をはじめとするポリネシア各地の航海カヌーが集まり、このタブーを取り除いて、新たにタプタプアテア・マラエをポリネシアの伝統航海術復活を象徴する場所として意味づけなおしました。しかし、それにしたって彼らはタプタプアテア・マラエのタブーに充分な敬意を払い、タプタプアテア・マラエに祈りを捧げてタブーを除去したわけです。
もしも航海カヌーにも乗らない、伝統航海術も知らない、ポリネシア人でもない私のような人間が、「こんなタブーに意味はない」と主張して、ヨットかなにかでタプタプアテア・マラエに乗り付けてみせたとしたら、それはタブーを除去したことになるんでしょうか? ならないですよね。たとえ現代では意味が無くても、そのタブーが置かれた当時には、それなりにきちんとした意味があったわけで、そういうものには敬意を払うべきでしょう。
タブーはその伝統を担う人々自身の手で、敬意を伴って除去されなければいけない。
私はそう思います。