『ともいきの思想』

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 私の博士課程での恩師の一人である阿部珠里先生が新しい本を出されました。タイトルは『ともいきの思想』で、副題が「自然と生きるアメリカ先住民の「聖なる言葉」」となっています。

 阿部先生は私が全く頭の上がらない6人の先生方の一人でして、あのナイノア・トンプソン氏の前でもほとんど緊張しなかった私が、いまだに阿部先生の研究室に伺う時だけは軽くビビっているという女傑です。その阿部先生が、幾つかの偶然に導かれてアメリカ先住民のラコタ族居留地に調査の為に通われるようになって20年。この間に経験された数多くの出来事の中から、特に深いところで先生の心を動かしたであろう出来事をまとめたエッセイ集が、この本。

 さて、タイトルからもわかるように、この本は北米先住民の共生思想に焦点を当てた一冊なのですが、これが何とも一筋縄ではいかないのです。悪い本だとか駄目な本だとかイマイチな本だとかいうことではありません。読みにくいとか、解りづらいというわけでもない。ただ、考えさせられるのです。非常に多くのことを。文化人類学者や社会学者がマイノリティのコミュニティに出入りした経験を語った新書は掃いて捨てても捨てきれないほどありますが(例えば名著の呼び声も高い青木保さんの『異文化理解』とか)、この本はそれらの中でも異色と言って良いでしょう。あ、異色という言い方をすると阿部先生にまた叱られるので言い直します。別格。格別。何が格別って、この海千山千の私でさえも、手持ちの思考の枠組みでは処理仕切れなかったわけですよ。これは新しい思考の枠組みをきちんと作らないと、阿部先生の問題提起を受け止められないと思った。

 もう少しわかりやすくご説明しましょう。

 数日前に私は太田好信さんの本を紹介しましたよね。『亡霊としての歴史』でしたか。あれは日本の文化人類学者の中でも理論面で最も活発に発言しているバリバリ現役最前線の研究者の最新の著作。読み手は完全に文化人類学徒前提です。でも私はそんなに難しい本とは思わなかった。「伝統の創造」論や先住民のアイデンティティ・ポリティクス論に、ロラン・バルトの写真論やクロード・ランズマンらの「表象の臨界」論を組み合わせて、ギデンズとベックの「再帰的近代化」論と同じような「自身の過去との絶えざる対話・交渉」という動的プロセスの構図に当てはめたんだなと一発で腑に落ちましたから。それを太田さんのフィールドであるグアテマラの事例を使いつつ提示したのが(多分)あの本。難しい理屈にはなっているけれども、例えばそれを学生に説明しろと言われたら、入り口から出口まで手順は全部見えます。出来る。手順は細かいけれども最後まで迷わずに行けます(だからつまらない本だと言っているわけではもちろんありません)。

 じゃあ阿部先生のこの本を使ってマイノリティ論の講義をしろと言われたら? すいません。一読しただけでは私には出来ない。手順が見えない。それがつまり、手持ちの思考の枠組みでは処理出来ないということです。

 というのはですね。この本の5章くらいまでは、ラコタ族の文化の綺麗な側面を紹介しているのですが、中盤に入るとラコタ族のトホホな(これは結城幸司さんがよく使われる表現ですが)側面が徐々に浮上してきて、後半ではラコタ族の中でも抜群のエリートであったり、名の知れたメディスンマンであったりするような人々の、良く言えば人間味のあるエピソード、もう少し有り体に言えばトホホな一面、までが描かれていくんですよ。カネにだらしなかったり、女出入りが派手だったり、伝統文化の復興を掲げている一方で伝統に反することもしていたりというね。

 阿部先生がそういうトホホ系エピソードを書かれた理由はわかります。工業化されていなかったり、文字をもたなかったりする伝統的な社会に生きる人々を、キリスト教で言うところの原罪を免れている人々、「知恵を持たないが故に神に近い人々」として見る立場(「高貴な野蛮人」)には長い歴史がありますが、現代の文化人類学や社会学はそういうものを厳しく批判していますから。ラコタ族を「高貴な野蛮人」として描くことは、色々な意味であり得なかったでしょう。そこまではわかるんです。問題はその先で、何故、後半に行くにしたがってトホホ度が上がる構成になっているのかが、私にはわからなかった。だって表面だけ見ると「持ち上げておいて突き落とす」書き方ですよ? 逆のパターンならまだ救いがあるのですが、この流れは不可解でしょう。

 もちろん、これが当該マイノリティ集団の一員によるものなら問題無いんです。結城幸司さんはよく「アイヌにもスパイク・リーのような作家が必要だ」とおっしゃいますが、これは要するに「アフリカン・アメリカンであるスパイク・リーは、アフリカン・アメリカンのトホホな側面を描きつつも、そこに普遍的な人間性への暖かいまなざしを絶妙に取り入れている。これはアフリカン・アメリカンを『高貴な野蛮人』として描くことなくアフリカン・アメリカンへの共感や連帯を醸成する最善の戦略である」ということでしょう。同じように、ラコタ族の作家がラコタ族のトホホを『じゃりン子チエ』的に描くならば、これは何の問題も無い。でも、阿部先生はラコタ族じゃありません。だから、スパイク・リーのポジションは取れない。スパイク・リーのあれは同胞でなければ許されないでしょうし、同胞でなければ表象としての打撃力は殆ど無い。

 でも、もう一度よく考えてみましょう。阿部先生は全てを語り終えた後のエピローグで、再びラコタ族の価値観をこう評しておられます。

「目先にとらわれない人間観と悠久の大地が育む歴史観、実は豊かなのは貧しい彼らで、貧しいのは豊かな私なんだと気づく。彼らとのつきあいは、絶えず自分のモノサシへの挑戦であるし、彼らは私を映す曇りのない鏡であり続けるだろう。」(252ページ)

 散々にタカられ、トホホな部分も見尽くして、その上でなおもこういう結論が出てきている。ここに、この本を読み終える為の鍵があるように感じます。なにしろ、インサイダーではない外部の研究者が、あるマイノリティのトホホな部分をかなり踏み込んで語った上で、それでもなお彼らに学ぶべきものは確かにあるのだと信念を持って主張しているとすると、これは聞き捨てならないんですよ。「マイノリティをいかに語るべきか」という点でも、「フィールドワーカーはいかにあるべきか」という点でも、重大な問題提起が行われている。

 まず押さえておかねばならないのは、ラコタ族の個々の成員は、決して人格高潔な聖者のような人物ではないということ。聖フランチェスコや行基菩薩や空也上人のような、特別な人間たちが集まっているコミュニティではない。むしろ、アル中や貧困の問題を抱えた相当に荒んだコミュニティとさえ言えるでしょう。そんなコミュニティで、現代の日本人にはちょっと思いつかないような洗練されたシェアの文化が継承されているところにこそ注目すべきではないでしょうか。ここから直ちに引き出せるのは、「個々の人格の陶冶に励まずともシェアの文化は実現しうる」という事実です。世の中を総修道院化する必要は無い。

 それでは、何故ラコタ族にはシェアの文化が発達したのでしょうか? 単純に言えば、そういう自然条件や歴史的条件があったということです。一つの適応戦略の結果として吝嗇を悪とする文化が育まれた。そういう価値観を共有することがコミュニティの存続にプラスに作用したからこそ、そういう価値観が受け継がれてきたわけです。ちなみにシェアの文化は日本列島にもありました。割と最近まであった。例えば宮本常一先生の名著『忘れられた日本人』には、こんな一節があります。

「小笠原:あんたはほんにこの村一番の働き手でありました。あんたの家の田が重一さの家の下にある。あんたが、下の田で働いているときに、重一さの親が、今夜は戸をたててはいけんぞ、金平さが仕事をしておるで、というて、表のあかりが見えるようにしておいた。」
「金田金:へえ、そうじゃったかのう。わしはまた、あの家はいつでも夜おそうまで表にあかりをつけてくれているで、鍬先が見えるもんだから夜おそうまで仕事ができてありがたかった。」(76ページ)

 これは今の愛知県北設楽郡東栄町名倉という土地で終戦直後に採録されたものですが、この一節を含む「名倉談義」という章を読むと、つい60年、70年ほど前の日本にも、ラコタ族とは違う形での洗練されたシェアや配慮の文化があったことがわかります。名倉は三河国の中でも格段に貧しかった山村ですが、それでも何となく富は村の中を循環していて、食い詰めて死ぬような者は出なかったし、流れ者に居場所を与えてやるような文化もありました。

 そういった文化は日本列島ではこの半世紀ほど、かなり後景に引いてしまっていたことも確かです。ですけれども、高度成長、バブル経済、平成不況、IT経済と新自由主義、リーマン・ショックなどの浮き沈みを経て、シェアや助け合いの精神は確実に復活しつつあると私は思っています。社会的企業家に注目が集まり、若者たちが「自分らしさを十全に発揮出来る仕事」ではなく「社会に貢献出来る仕事」を自己実現の道として選ぶ時代。右肩上がり経済も終身雇用もあだしが原の道の霜。一足づつに消えていく夢の夢こそあはれなれ。こういう状況に適応していくには、ギフトとシェアによって限られた資源を融通しあうしかないですからね。

 そんな今だからこそ、かなりトホホな人たちだってギフトとシェアの文化は維持出来るというこの本の教訓は、私にはとても力強い希望のように見える。多分ね、トホホ度で言えばラコタ族の方々も現代日本の我々も五十歩百歩。どっちが上とか下とか考えてもあまり意味が無いくらいの違いしかありませんよ。だから、肩肘を張る必要は全然無い。発想を少し変えることで、これからの時代に適応していける。私はひとまずは、そういう風にこの本を読みました。

 マイノリティ表象やフィールドワーカーの倫理、フィールドワーカーの位置性の問題等々は、また機会をあらためてここに書くかもしれませんし、別の場所で書くかもしれません。この本が投げかける問いの全てを一日二日で考え尽くすのは、さすがの私でも無理っぽいです。じっくり読み返していこうと思っています。